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あらゆる事柄に関するレビューログ。 #kaibaricot
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アゴタ・クリストフはつくづく凄い小説家ですね。
本作は『悪童日記』の続編。

『悪童日記』の冷酷無比な文体の系譜を
底流で受け継いでいるのみ。
全く異なる文学空間を構築している。

フランス語のタイトルは、La Preuve
つまり、「証拠」
邦題の「ふたりの」は意訳です。
私個人的には、この意訳は余計な気がしますが、
商業的なセンスからすると「ふたりの」は
必要なんだろうな、とも思うので、
まあそこは重要じゃない。

一読、『悪童日記』とは全然違う。
何かがおかしい。
それは文体だけではない。
内容も何かがおかしい。
しかし、おかしいと思ったまま、
その謎は幾人かのひどく印象的な登場人物によって、
一旦宙づりにされてしまう。

本質的な寄り道のような、いくつかのエピソード。

そしてきっちり基本をおさえた起承転結。

アゴタの作品は、
明快に始まり、明快に終わる。

これが本当の書き出しであり、最後の一文なんだろうな、と思う。
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明日からまた怒濤の日々なので、
今日のうちに一つ更新しておきたかったのです。


幕内さんには大分前から注目しており、
ブログもよく拝見しておりました。
私は、趣味は?と聞かれれば、まず第一に料理と答えます。
ただし、ここ1年くらいは週1〜2くらいでしか料理できていません。

料理するとき、よくその指針とするのが、
こちらの『粗食のすすめ』と
ZIP!のMOCO'S KITCHENです。
もこみち君の料理がなかなかよくて。
私は玄米ばっかり食べています。

とはいえ、私は「粗食」にはほど遠い。
けれども、この本を読めばいかに、
我々がへんてこな食生活を信奉しているかよくわかります。

例えばその一つが「牛乳」神話。
「牛乳」を飲めば身長が伸びるみたいな神話。
ひじきのほうがカルシウム多いんですよ、実際は。
しかもカルシウム摂れば身長伸びるというのは、
実際のところはよくわかっていないらいしい。

「食パン」についても面白い一考察があります。
フランスとかパン大国に行けばわかることですが、
いわゆる「食パン」は日本にしかない。
フランスでパンと言えばバゲットだから。
「食パン」は砂糖漬け食品みたいなものなんですね、実は。


「粗食」と言うと、まるで禅寺で出てくるような精進料理を
思い浮かべるかもしれませんが、
要は典型的な和食という、ざっくりした理解でいいかもしれません。
米をしっかり食べようということ。

身体が資本であるので、とにかく健康でありたいものですね。



早川書房刊。

私は以前からよく思っていましたが、
文学研究とは、なんなんでしょうね。

個人的なことを少しお話すると、
自分自身、その道へ片足を突っ込み、
学費・生活費を捻出するために就業しながら大学院に身を置き、
博士課程を1年目まで行きましたが、心身共に疲れ果て、
全く両立出来ずに中退。
本を読むことは大好きだし、何かを書くことも好きです。
しかし、はじめから最後まで、
文学研究がなんなのかさっぱりわからなかった。
わからなかったから、こうなったに違いない。

自分の専門と称する作家についても、
作品を読めば読むほど興味を失っていきました。
ひどく単調で、同じことをずっと言っているだけに過ぎない。
したがって、ある一定の法則で、その作家のすべての作品を読み解くこと、
割り切ることができる、というのが私の修論でした。
もちろん、その作家の考え方に対して、
私自身共有しているものは当然あるのですが。

今でははっきりと認めることができますが、
私はそもそも院に入る大分前から、
その作家に対する興味を失っていたのに、
「就職」から逃げようとして、
院という場所へ入っただけなのだと思います。

そんな私に、ある作家の魅力をうまく伝えること
など到底できるわけもなく、中途で頓挫したわけです。


さて、前置きが長くなりましたが、
『悪童日記』のような小説を読むと、
やはり自分の「研究」的素質のなさ、というのを痛感するし、
本来、私が好きな作品というか求めている作品というのは、
まさしく「これだ!」と感じて止まないのです。

この小説は間違い無く別格ですし、
エンターテイメント性とか、そういう言葉を持ち出しても、
すべての面において抜きんでている、確乎たる小説なのです。

こういう小説を前にして、「研究」という行為は、
結局のところその最も忠実なものは
私見によれば、「翻訳」であると思います。

私に言わせれば、
最も優れた「研究」行為はすなわち「翻訳」であると考えています。
「解釈」ではなく。
翻訳とはある作品の読者を広げる行為です。
解釈は一種の内輪だけの祭りです。


素晴らしい研究と慧眼でもって、この作品を翻訳し、
早川へ唐突に送りつけた堀茂樹先生は素敵だと思う。

この作品の内容や形式、
その出版事情については様々なところで詳しいので、
いまさら私がここで紹介することはやめておきます。

本を読まない人でもすぐに読めるに違いない小説ですので、
ぜひこの本をまだ読まれたことがない人は読んでみて欲しい。

徹頭徹尾、あらゆる面で一貫した、第一級の特異な小説です。



時事ドットコム。2011/9/15
再審早期開始を要請=ネパール人受刑者家族-東電OL殺害

1997年3月8日。
渋谷区円山町にあるアパート喜寿荘の101号室。
東電エリートOL、当時すでに年収1千万あったと言われている、
渡辺泰子(39歳)が殺害された。
しかし、事件が発覚したのは、実に11日後の3月19日。
それまで彼女の骸は発見されなかった。

この殺人事件は、いかなる面からも普通の殺人事件ではない。
且つ現代を生きる我々にとって決して他人事ではない事件。
誰しもこのような状況に陥る可能性がある。
それは殺害された彼女のようになるかもしれない、
という可能性だけではなく、
犯人としてつかまったゴビンダのように、
極めて冤罪の高い事件に巻き込まれる可能性がある、
ということを私は言っています。

だから、もしも自分自身にこのような傾向があるとすれば、
それを意識化しておくためにも一読されることをお薦めします。
というかこれは絶対に必読書です。
このストレス社会で毎日摩耗している我々にとって、
どうしても読まないといけない本でしょう。


人々がまずこの事件に大きなショックを受けたのは、
渡辺泰子さんが日中はエリートOLとして生き、
そして夜は娼婦として生きていた、その生き様に対してです。
娼婦といっても、そんじょそこらのものではない。
援助交際レベルの身の投じ方ではないのです。


年収一千万の彼女が客を円山町で直引きし、
最後の時期にはたった2千円で自分を売る。
毎日仕事後に、円山町で流しの客を4〜5人とり、
必ず神泉から終電で永福へ帰る、判を押したような生活。
翌朝はもちろん東電へ出勤。
時には公園で時には駐車場の車の裏で、場所は選ばない。
その上、土日は五反田でホテトル嬢。
この信じられない自己に対する峻厳さはどこから来るのか。

極端な拾い癖とお金に対する妄執。
ラブホテルのベッドの上での何度かの脱糞。
しかも、お詫び状も格調高いお役所的な文言で作成するのも忘れない。
極端な真面目さ。
実に、彼女は二重生活などではなく、
終始一貫した、真面目で一本気な女性に思えます。


円山町の怪物はどうして誕生したのか。


この事件について私は非常に多くのことを考えさせられ、
言いたいこともたくさんあるのですが、まとまりません。

渡辺泰子さんのこと以外にも、
日本の司法や警察のあまりにもいい加減な態度には驚愕しました。
今分かったことではないけれど、
日本にあるかなり多くの組織はどうも腐っている。
こんな無茶苦茶な話はない。

この本を読めば、
渡辺泰子さんの死がどれほど多くの問題を暴き、
訴えているか身にしみる。
東電OLであった彼女の生の軌跡には
震災の東電原発問題さえ含まれていると思います。


最後になりましたが、
ゴビンダさんの再審請求が出来る限り早く通ることと、
渡辺泰子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。





これこそは、すべての女性に読んで頂きたい図書。
とりわけ「結婚」というものや、「家族」というものについて、
ここで提示されている考え方はとても絶望的なものでありますが、
あまりに現実的なのです。
または、「幸福」や「人生」というものがいかなるものなのか、
モーリヤックの提示した一人の現代女性は、
1927年から90年以上経った今でさえ、アクチュアリティをもって迫ってくる。

だから私は、ご結婚されている女性にこそ、
この話を読んで頂きたいと思っています。
とても、絶望的な物語りですが、
そのような物語りの存在意義とは、ただひとえに、
悲しい時に中島みゆきの「悪女」を口ずさむような、
悲しみに対する悲しみの薬。
絶望は同種の絶望をもってして、乗り越えないといけないからです。

さて、あるところで、主人公でありタイトルに冠されているテレーズのことを、
「心底怖い女の話」と書かれている著名な方がおられましたが、
否、それどころか、これはひどく現代的な、他人事では全くない、
ある意味では当たり前のお話なのです。

「心底怖い女」、それどころか。

テレーズをこう形容してしまう感性、それこそテレーズが最も恐れ、
最も理解しようという姿勢からほど遠い、「男性」的な典型姿勢ではないか。
テレーズの夫ベルナールのもつ姿勢と一致しはしないか。
この表現こそは、心ない、一つの形容詞に当てはめ、
その存在の多様性・複雑性を去勢させる、悲しい不理解ではないか。

「怖い」というのは表現は、常に理解できないものに対する
典型的な形容詞であり、テレーズとベルナールのような男女関係に限らず、
様々な人間関係、あるいは自分と異なるものに対する形容なのです。


さて、『テレーズ・デスケイルゥ』のあらすじとは、
新潮社の文庫本版レジュメから引用すれば、


 テレーズは夫を殺して自由を得ようとするが果たせず、
 しかも夫には別離の願いを退けられる・・・。
 情念の世界に生き、孤独と虚無の中で枯れはててゆく女
 テレーズを、独特の精緻な文体で描き、
 無神の世界に生きる人の心を襲う底知れぬ不安を
 宗教的視野で描く名作。


つまり、テレーズは、夫を殺そうとする女なのです。
しかしそれは、あくまで外面的な情報に過ぎない。
彼女がそのような方向へ転がっていった内的な必然性とは、
一体なんであるのか、そのことをじっくり考えて見る必要性が、
今の時代を生きる我々にも少なからずあり、
これは全く他人事ではない。

モーパッサン『女の一生』
フローベール『ボヴァリー夫人』
と同じ系譜に属する物語で、言ってみればボヴァリー夫人の夫に対する評価、
すなわちすべての夫的なるもの(私は男性とは言わない)
に対する絶望と、
似ている話に違いない。

ボヴァリー夫人が不倫に走り自殺したのと同じ道順で、
テレーズは夫の殺害へ向かう。

このことが示している一つの絶望的な理解は、
多くの場合、——もちろん全部ではない——、
結婚というものが人生からの「逃避」であるという事実。
むろん「逃避」といっても、様々な種類がある。


欺瞞であろうと子供は授かる。
しばし子供へ、子育てへ没入、専心する。
自己欺瞞を忘れる。子はかわいい。
だが、子は育つ。大人になる。
その時、再び、一度逃げたものに追いつかれていることを悟る、
という典型的な主婦の手順。
私もその実例。

そしてその欺瞞の末路。
ボヴァリー夫人は自殺したけれども、
テレーズはそういう意味でも現代的な女性です。

ここで結論や夫殺し未遂の動機は語りませんが、
彼女の姿には、『東電OL殺人事件』の彼女のことさえ重なる。


最後のシーンで見る彼女の後ろ姿は、
果たして今村昌平の『豚と軍艦』のようにしぶとい吉村実子なのか。

映画版では『24時間の情事』のエマニュエル・リヴァ。
残念ながら映画のテレーズは見ていないけれど、
リヴァはぴったりだと思います。

この知的でニヒルな、日本の小説に描かれない乾いた女性は、
デュラス『モデラート・カンタービレ』にも通ずるものがある。


すべての女性に読んでもらいたい一冊です。

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海馬浬弧
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女性
自己紹介:
言語学者、哲学者、文学者、サイバネティック学者である、
海馬浬弧による本、映画、アニメ、音楽、その他、
あらゆることに関するレビューログ。
私生活については一切書きません。7カ国語堪能。
独断と偏見に充ち満ちているため、不快に思われる方もいらっしゃるでしょうが、これも現代の歪みの一つだと思って、
どうかお許し下さいませ。
リンクは才能豊かな知人の方々なので、ぜひ。
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