忍者ブログ
あらゆる事柄に関するレビューログ。 #kaibaricot
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


1972年刊。
講談社文庫で手に入ります。

女性の情念を描くのが上手いと言われている立原正秋。
今では、ほとんど読まれることのない作家の一人です。
なぜか?

それは第一に、立原正秋という作家の位置づけが難しいからなのです。
例えば、川端や大江健三郎、三島、安部公房なんかと比べると、
いわゆる「純文学」臭が少ないように思えるし、
立原と仲の良かった小川国夫と比べても、そんな感じがする。

どこか、立原には、谷崎文学を大衆的にした雰囲気があります。
しかし、渡辺淳一のような馬鹿丸出しの大衆小説とは異なり、
言ってみれば、ある「時代」の中、とりわけ彼が生きていた時代においてしか、
認められないような微妙な良さがあるのです。
似たような小説家に、丹羽文雄を思い出します。
高橋治を思い出します。

この三人に共通すること。
それはいずれも国文学出身者であるということです。
そして、これこそが、今の時代において、
最も読まれ難くさせている一因を成していると思えます。
彼らの文学には、独特の国文学風の滅びの美学があり、
本居宣長的に言うと、『源氏物語玉の小櫛』的な
「もののあはれ」文学なんですね。

それが今から見ると、たぶん当時もそうだったんでしょうが、
少し嫌味に見えてしまう。

三島にも有ると言えば有るんですが、彼は法学部ゆえの、
論理性を持ち合わせている。
谷崎にも有りますが(彼は国文)、彼にはモダニズムがある。

「もののあはれ」とか国文的な女の情念って、
一歩間違えると二時間ドラマになってしまう。
だから、顧みられることの少ない作家となってしまったんでしょうね。

さて、前置きが長くなりましたが、『春のいそぎ』について。
女の情念満開です。
ただし、薄めに。
とはいえ、女・女・男の三姉妹、全員が不倫にいそしんでしまう。
滅亡の道を辿りかけ、そこから抜けだそうとする物語。

舞台は立原文学お得意の鎌倉。

面白いですよ、はっきり言って。

なるほど、少し嫌味な感じはありますが、気になりません。
ある意味すごく、ロマンチストな物語です。

しかし、女姉妹二人が不倫をしてしまう、その道筋は、
(その理由とは書きません。なぜなら、はっきりと一つの理由に還元できないからです。しかもなお、確固たる道筋と言っていいでしょう)
とてももの悲しい。
彼女たちの独白は寂寞としている。

もの悲しいし、真に迫っている。
単にセンチメンタルなだけではない。

本当にもの悲しい小説です。
堪えました。

秋の夜長にどうでしょう。
PR

高橋治(1929ー)の『風の盆恋歌』

「風の盆」の説明をしないといけないでしょうか。
私は、祖母から教わりました。
祖母の家に行った折、勧められた本です。

この本は、解説で加藤登紀子さんが書かれているように、
「風の盆」を描きたくて書いたような小説。
この本を読むと、絶対に「風の盆」に行きたくなること間違い無し。

越中おわらの風の盆。

日本の祭りは、基本的には陽気で活気に溢れていてうるさいものです。
それらの祭りを「動」とするなら、「風の盆」はまさに「静」
静かで、艶めかしく、美しい踊り。
毎年、9月1日から3日までの3日間、夜通し踊り続ける、「風の盆」
私は残念ながらまだ見たことがありません。

さて、高橋治さんの『風の盆恋歌』というのは、
カテゴライズしてみれば、不倫小説です。

私はなんとなく祖母の想いを感じ取りました。
彼女ははやくに結婚し、私の父を含む子供を3人もうけましたが、
祖父が全く働かず、それどころか作るのは借金ばかりで離婚。
女手一つで3人の子を育てるために、働きずくめ。
いってみれば、
佐藤愛子さんの、直木賞小説『戦いすんで日が暮れて』の世界。
そんな祖母だから、こういう不倫に憧れを抱いたのはわかるきがするのです。
少なくとも、渡辺淳一的なバカで間抜けな不倫ものより、大分いいです。

私は最後、不覚にも涙しかけました。
最後の1ページで、ね。

そういえば、祖母に勧められたもう1冊、
立原正秋『春のいそぎ』も不倫小説でした。

・・・

なんていうか、『風の盆恋歌』は、
日本の数多い小説同様、とてもセンチメンタルです。
それに都合のいい幻想です。

いまはもう別々の家庭を持つ2人が、
20年前の想いを、いわば暗渠のように抱えている。
その2人が、パリ、金沢、白峰で会う。
そして1年のうち、たった3日の風の盆の期間だけ、一つの家で落ち合う。
その美学。非常に甘い設定。

そして、その3年目に起こること。

物語は5章構成。
序の章、風の章、歌の章、舞の章、盆の章。
これら章の名前に、すべて何が起こるか表れています。
ちなみに、作者である高橋治さんは東大の国文科を出ているため、
その教養が如実に、至るところへ出ている。

特に歌。

歌の章では、書簡集になる。
お互いの手紙のやりとりに、必ず和歌が添えられる。

ゆめにみし人のおとろへ芙蓉咲く

とかね。
この句は久保田万太郎だったと思うけど、
非常にいい句ですね。

そう。

この物語で、芙蓉、特に酔芙蓉は非常に重要な役割を果たしております。

不倫小説というのは、どうしてもある種の諄さというか、
他人が酔っているのを見ると自分の酔いが醒めるような、
そういう効果が得てしてついて回るものです。
不倫しあっている2人ばかりが盛り上がって、
読者はおいていかれるような感覚があるものです。

そういう感覚はやはり少々あり。
しかし、そこまで、ではありません。
例えば『失楽園』のような、タイトルの時点で暴走している感じではないし。

私はオススメします、『風の盆恋歌』
とても面白い小説です。



『猟銃』は芥川賞受賞の『闘牛』とともに新潮文庫から手に入ります。

井上靖の作品の中でも初期作品にあたる。
短編なので、ぜひ読んで欲しい。

みなさん、
井上靖と聞くとダサイイメージがあるかもしれない。
国語の教科書で『しろばんば』とか『あすなろ物語』とか読むから。

しかし、井上靖はまず、第一級の詩人です。
彼の散文詩は大変優れています。
非常に詩的直感に優れている。

そのポエジーを遺憾なく発揮したのが、本作『猟銃』です。
『猟銃』はある意味、超主観的小説です。
というのも、
妻・愛人・愛人の娘からの三通の手紙で本作は成り立っています。

女性からの手紙三通。
それが一体なぜ、『猟銃』というタイトルなのか。
もちろん、主人公である男性の趣味は猟ですし、
『猟銃』という言葉には様々な意味が込められています。

一気に読み終えてみてください。
あなたは果たして愛する側なのか愛される側なのか。
考えさせられる作品で、大変素晴らしい小説です。



オースターを初めて読みました。
安部公房とかベケットに似ていると言いますが、
少なくとも安部公房よりは大分おしゃれ。
だって舞台がニューヨークだし。

安部公房はもっとださいのよ。
そこがいいの。
もっと庶民臭く、もっともっと無名な人について書いているのです。

ロマン主義が終わった後の現代文学は、
もっと庶民的なことを題材とした小さな物語が多い。
現代のあたりまえのような日常生活の繰り返しとその不安。
空虚、無意味。
顔とか名前とか。
そういうことが問題にされる。

『幽霊たち』では、主人公の名前はもとより、
登場人物の名前はすべて「色」です。
主人公はブルーで、あとはブラックとかホワイトとかブラウンとか。
非常に曖昧な名前が用いられている。
個性の全くない名前。どこにでもいるような人物。
そんな、どこにでもいる、私でもあり、あなたでもある人物が、
ひょんなことから巻き込まれる不可思議な事態。

「私」は否応なく「私自身」について考えさせられる。
日々の忙しい生活から脱文脈化され、自分自身と向きあわさせられる。

主人公のブルーは私立探偵です。
しかしこれは何も起こらない探偵小説です。
ブラックを見張り続ける仕事につくも、
彼が探偵するのは、自分自身なのです。

様々なアメリカ文学の固有名詞が出てくるので、
そういう意味では、小さなアメリカ文学指南書にもなるでしょう。

短いので気分転換にでもどうぞ。

ようやく読み終わりました、
599ページが本文、解説を加えると600ページを超えてきます。
力作長編『贋・久坂葉子伝』

富士正晴は今ではあまり知られていない作家です。
ですが、例えば三島由紀夫の『花ざかりの森』の刊行に奔走したのは彼ですし、
島尾敏雄たちと同人誌『VIKING』を創刊したのも彼です。

力作と呼ぶにふさわしい。
なかなか読み終わらない。
想いが重い。

埴谷雄高はこの作品について、「牛刀をもって鶏を断つ」と評したとか。
つまり、久坂葉子という人間は鶏に過ぎず、
そのような、言ってみれば「小物」のために、
1000枚を超す原稿用紙をもってして書く必要があったのかという揶揄です。
私個人的には、久坂葉子という実際に存在し、21歳で自殺してしまった、
伝説的女性を描くのには牛刀をもってしないといけないと思いますが。

久坂葉子は、富士正晴が言うように、
現代女性の象徴的存在なのです。
50年以上経った今でさえそうなのです。

彼女は、彗星のごとく現れ、1952年の大晦日、
阪急六甲駅で梅田行き特急に飛び込み自殺を遂げました。
享年21歳。
本名、川崎澄子。
神戸の中でも名家中の名家、川崎重工の家庭に生まれました。
『ドミノのお告げ』では芥川賞候補にもなりました。
ある意味、恵まれすぎている彼女なのに、なぜ死なないといけなかったのか。

公私ともに関わりがあり、師匠的存在であった富士正晴は、
久坂の死後、彼女の選集を刊行しようとしますが、
彼女の両親、特に父の反対にあい、それではいっそ、
久坂のことを「贋伝記」という形で自分で書いてしまおうと思い、
『贋・久坂葉子伝』を書き始めます。

この「贋伝記」という発想、これが非常に面白いと思います。
そしてその「贋伝記」の中に自分自身も登場人物として出てくる。
これはヴァージニア・ウルフの『オーランド』の手法を借りてきたとか。

自分自身さえ登場する小説。
あまりにも本当のことを書きすぎている。
それは久坂葉子自身、死の当日書き上げた『幾度目かの最期』で、
本当のことしか書かない、というぎりぎりの心境と同じです。

とはいえ、『贋・久坂葉子伝』はそれでもなおフィクションなのです。
これは、日本でも屈指の、というか私の考えでは唯一の、
「本物の贋物」です。
マリリン・モンローが自分のことを「私は本物の贋物だ」と言っていますが、
まさにそれです。

このギリギリの久坂葉子伝は、誰も傷つけずにはおかない。
登場人物はすべて実在する人物。
もちろん名前は変えられているけれども・・・
読者さえ彼女の傷を追体験させられる。
久坂が書いた文章・手紙類はそのまま引用され、
徹底的に書き込まれる久坂葉子。
これこそ真の研究です。
本当の研究とはすなわち解釈することではなく、
経験することなのです。

三人の男の間で揺れ動き、痛めつけれられ、苦しみもだえる久坂葉子。
度重なる自殺未遂。
女太宰と言われ、『幾度目かの最期』は確かに、甘ったるい文体です。
感傷と自己否定と呪詛に陶酔している。
しかしこの陶酔はなぜか嫌ではない。
それは単純に久坂葉子が綺麗だからです。
太宰がかっこいいように。
それは大切な資格です。

さて、富士正晴は、様々な時や、幻想や現実を交錯させつつ、
ある意味かなりたくさんの手法や文体を用いて、久坂葉子に肉薄していく。

特に痛ましいのは自殺当日の大晦日で、
周りの人々は彼女の決意を読み取って、
なんとか大晦日の時間を削らそうと苦心惨憺するも、
逃げられ、自殺を許してしまう。
これほど、一分一秒を過ごすことが、生きることにつながるとは。

誰かと一緒にいること、話している間は、少なくとも死にません。
そういう時間の積み重ねの失敗。

自殺は確かに一種のタナトスというのを認識させられるし、
それに対して私たちができることは、いかにも少ない、
少ないが大きい、といったことを感じさせる力作長編。

これを読まれる方はぜひとも神戸という町を知ってから読んでください。



 HOME | 4  5  6  7  8  9  10 
Admin / Write
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新コメント
[06/03 マスターの知人]
[03/08 桐一葉]
[12/03 あみぴろ]
[11/16 あみぴろ]
[10/19 あみぴろ]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
海馬浬弧
性別:
女性
自己紹介:
言語学者、哲学者、文学者、サイバネティック学者である、
海馬浬弧による本、映画、アニメ、音楽、その他、
あらゆることに関するレビューログ。
私生活については一切書きません。7カ国語堪能。
独断と偏見に充ち満ちているため、不快に思われる方もいらっしゃるでしょうが、これも現代の歪みの一つだと思って、
どうかお許し下さいませ。
リンクは才能豊かな知人の方々なので、ぜひ。
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター
アクセス解析
忍者ブログ [PR]