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あらゆる事柄に関するレビューログ。 #kaibaricot
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シオドア・スタージョンの代表作の一つ。
1950年に書かれた傑作小説です。


この小説に纏わる、個人的なエピソードを一つ。


実は、この本を読むのには二ヶ月くらいかかりました。
仕事で通勤の行き帰り、そして寝る前にコツコツ読んでいました。
……ちょうど半ばくらいまで読んだ3月終わり頃。
飲み会で、非常に大量に飲んだことにより、
鞄の中にゲロってしまい、この本も死亡。
その日は、記憶もところどころしかなく、気がついたら埼玉県の
山手通りを歩いている始末で、紆余曲折を経、家に帰ったのは午前3時過ぎ。

面白い本だったので、どうしても最後まで読みたくて、
またこの本を買い直しました。
三分の二ほど読んだ頃、
先日の飲み会で、また浴びるほど飲み、鞄にゲロってしまった。

こうして『夢見る宝石』は二度、死んでしまいました。

悔しくてまたこの本を再度買いました。
同じ本を三冊買うという失態。馬鹿ですね。

で、ようやくたった今、読み終わった。


……そういうわけで、思い入れの深い小説なのです。
もちろん、三冊も買っただけの味わいはありました。

スタージョンという作家はは非常に優れていますが、
あまり知られていません。
最近、河出からスタージョン作品が多数復刻されて、
手に入りやすくなっています。
難解、と言われていますが、わたしはそんなことないと思う。
むしろ、独創的、という言葉が相応しいでしょう。
ちょっと独創的過ぎるために、難解と言われるだけで、
物語中の哲学や論理、話の筋道は決して難解ではない。

難解ではないということは、つまり、
私には作中人物の心理の展開がしごく論理的なものとして、
理解できるということです。


スタージョンは根っからの職業作家であると私は思う。
その理由として、第一に、
彼の物語の語り口はあくまでさりげないのに、
それが壮大な物語へと繋がる点。
いい小説の条件は、絶対にさりげなく始まる。
いまから話をはじめるぞ〜っていう感じではなく、
まるで何かの話の途中であるかのように、始まるのです。
次に、スタージョンの文章には個性的な捻りがあり、
ストーリーも確固たる構成を持っている点から、
わたしは彼をして卓越した職業作家であると考えるのです。


SFという括りから、本作は早川文庫に入っているものの、
むしろル・グウィンなどの幻想文学に近いと考えます。
(ル・グウィンも早川にありますよね)
彼の文学は普通の純文学的、散文的な世界をモチーフにしていない。
にもかかわらず、彼の描く世界は我々の世界より、
心理の中においてはより人間的なものを描き出す。
とても風変わりな発想を物語の骨子としているため、
SFという範疇に、とりあえず入れられている、という具合でしょうか。

彼の代表作には1953年に国際幻想文学大賞を受賞した『人間以上』、
あるいは『時間のかかる彫刻』、『一角獣・多角獣』などが知られています。
私はこれらをまだ読んでいませんが、ぜひとも読みたいと思いました。

非常に面白い小説です。
なんだかうさんくさい、面白くなさそうなタイトルかもしれません。
わたしもそう思っていました。
なんかださいタイトルだなと。
だから、本当に面白いのか?って読む前までは思っていました。


でもラスト付近はとても詩的だし、スリリングでさえあります。
夢を終わりまでしっかり見続けること、
不思議な味わいのある傑作でした。



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安部公房再読計画。

ドナルド・キーンさんの解説が素晴らしい。


安部公房はつくづく、ありふれた光景を描くのが非常に上手い。
散文的な風景を、どこか微妙にひねくれた散文で語り出す。
それは自己陶酔しているような文章では決してなく、
自分も散文的風景の一部であるかのような文章なのだ。

たぶん安部公房は、
はじめて我々の通勤の道を超現実的に描写した人物だ。
誰がこの日常極まりない、
アスファルトの慣れきった道程を描写しただろう。

美しい自然とか、とても近代的な未来都市とか、
そんなアプリオリに特別な風景ではない。
いかなる形容詞も付加され得ない、典型的な日常風景を
執拗に描くのである。

もちろん登場人物もありふれている。
『箱男』『密会』と同様、主人公に名前はない。
なぜなら、名前がある必要がないのだ。
残酷なことを言えば、
現代に生きる我々のそのほとんどが、
名前が有る必要がないし、実際に名前がない。

名前がないということは、
すなわち、安部公房はまず主人公の自同律をなくして、
そこから書き始める。


仮に、私が今日死んでも、
世界はなんの傷手も負わないだろうし、
現に、いまこうしている時も誰かが死に生まれ、
泣き叫んでいるに違いない。

新聞やテレビで報道される死はごく一部に過ぎず、
死の多くは、統計学へ吸収されるだけだ。
みんながツイッターで追悼するのは、
選ばれた人の死に過ぎない。
その上、選ばれた人の死でさえも、
我々は日頃の忙しさにかまけて次の週末には忘れるだろう。


私の存在も、
私的な側面を排除し、社会的な側面でのみ言えば、
十分別の誰かで埋め合わせできる。


安部公房は、この埋め合わせできる人物を描き出す。
日常という背景から、
じんわりと浮き出てくるように「描き出す」のである。


『燃えつきた地図』はそんな小説群の中でも、
もっとも典型的な作品の一つだ。

ごく普通の会社に勤めるサラリーマン(営業)がある日忽然と失踪する。
そうして失踪した夫を探してくれという妻の依頼を受けた、
興信所の男が主人公。
彼は、失踪者を探すうちに、手がかりを失い、
自分自身も都会の中に迷い込み、もはや帰り道がわからない——
地図を失ってしまうのだ。

そんな彼が最後に下す決意は、とても詩的で感動的である。
しかも悲壮な決意だ。


人間はその多くが別の誰かで埋め合わせがきいてしまう。
あるいは、その人がいなくても、成り立ってしまい、慣れてしまう。
けれども、本当にそうだろうか?という疑問、
この確固たる日常はなんなのか?という疑問から、
安部公房は書き始めた希有な作家です。


案外こういった問いの中にこそ、
あまりに現実的だからこそ、
みんな無視しているような、「超」現実がある。
それはシュール(sur)レアリスムではなくて、
現実を超える何かではなくて、
今の口語表現でいう「超」現実的な、
みんなが気がつかずにやりすごしている、
人間存在のはかなさである。


安部公房と三島由紀夫は本当に対照的だ。

『箱男』再読。

『密会』は聴覚的アプローチから、愛を捜索する物語り。
それに対し、『箱男』は視覚的アプローチから、愛を探求する。

この二作品を読んでまず感じるのは、
盗聴にしろ、覗きにしろ、最終的には必ず性愛に行き着き、
逆に性愛には盗聴的要素、覗き的要素が多分にあるということ。

思えば、覗き的要素が「恋」のきっかけになる物語は、
古今東西を見渡しても非常に多い。
例えば、映画『裏窓』は覗き映画の代表作である。
『デカローグ』のどのエピソードか忘れたけど、
二作くらいは覗き的要素があった。
『マレーナ』もそう。
おそらく、すべての恋愛映画には、
「見る」というテーマが重要なものとして織り込まれているでしょう。

覗きとは、見られずに見ることです。
純粋に見る側に回ることです。
そして、性愛も含めコミュニケーションとは、
見る見られるという行為なのです。

箱男になることとはどういうことか。
それは、自分は見られることを遮断し、
一方的に見る側に回るということ。

象徴的なのは、一方的に見る側となった箱男が
世界がどのように見えるかを語る描写。
そにれよると、世界が突如、
とても滑らかで、敵意を失い、安全に見えるという。
実は、私たちは、人間からだけでなく、
様々な物象からも見返されている、ということがわかる。
私たちは通常、見られていることを意識し、
自意識を作り上げ、自己防衛する。
なんとなく、物象から見返されているというのは
書かれていないけれど、アントニオーニの
『太陽はひとりぼっち』の終盤のシークエンスにも暗示されている。


他者からのコミュニケーションを完全に遮断する箱男。
だから、箱男から見られていることを感じたとき、
一方的に見られている人は、恐怖と怒りと憎しみを持って、
見られずに見ている特権的な立場の箱男に襲いかかるのだ。
これはある意味では黒澤明の『天国と地獄』の
山崎努の心境でもあるでしょう。

とてもよく練られた前衛的な物語。


このような小説を読み、つくづく最近感じるのは、
人間は一人では「遠くへいけない」ということ。
自分一人の興味や考えることなど、所詮知れている。
自分一人の興味を追求しても、とても自己満足的な
偏った人間となってしまいがちで、そういう実例をよく見る。

自分が好きなことややりたいことなど、
それまでのことに過ぎない。
自分が興味なくて、場合によっては否定していることにこそ、
何かヒントが隠れていることが多々あり、視野が広がっていく。
なぜなら、自分が嫌っていることとは、
自分にとって脅威なことに他ならないから。
そういう体験を私自身は積み重ねている気がする。
羽生さんがあえて相手の得意な形に挑むのと同じです。
三回負けても四回勝てばいい。

自分を否定し、傷つける他者にこそ、新しさはある。
なぜなら、自分にとって自分は安全地帯に過ぎないから。
自分一人で考えられることなんて所詮しれている。
バイアスががっているし。
だから出来るだけたくさんの人と、私は腹を割って話したい。


安部公房は、
弁証法的に高まる二人の関係を示すのではない。
「尊敬しあう関係」なんて馬鹿らしい。
『密会』にしろ『箱男』にしろ、
出来するのは絶望的な愛。

問題となるのは、どちらも結局は性愛であり、
人間二人の関係は、つまるところそこへ行き着くと
私自身はそう考える。

『箱男』の終盤の異様なスピード感は一体何なのか。
誰か教えて下さい。

例によって、主人公に名前もない物語。
それは、彼が常に三島的英雄の物語を書かないからで、
これはあくまで群衆の一人、誰にでも起こりうる寓話なのです。



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孤独。

頭がおかしくなるのではというほどの怒りに襲われて、
しにたい気持ちが喉から溢れる。

溢れてくると、ツイッターとかに連投する。
だけども、すぐに、
皆さんのTLを汚したくないと思い直し、消す。

結局、呟きにせよ、ブログにせよ、
私も多くの人同様に、何かを主張したがっている。
そして願わくば、その主張が誰かにつながればいいと考えている。

しにたいしにたいと言っているうちは決してしにはしない。
かいているうちはしにはしない。

本当の最期は、Cがそうであったように、
笑いながら電話を終えた後の

小さな踏み外し。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


さて、いまさら、『実存から実存者へ』を読んだ。

今年の秋、転職組のなかで、
愛媛の島へ生活の拠点を移した
とても大切な友達はレヴィナスを専門としていた。
読んでみて始めてわかった。
なぜ彼がレヴィナスを専門としていたかが。

彼のおかげでレヴィナスに対する興味が湧き、
読む機会を得た。
なぜか学生時代は読もうとしなかったのに、
要は親しい誰かが読んでいると、
それだけで何かのきっかけとなる。

(以下、私の勝手な読み、
いつもの我田引水なので、
おかしなところは多々あると思います。
よって、諸賢の御批判、御教示を伏して仰ぎたく存じます)


寒くて暗い、東京の夜。

怒りと憎しみしか感じない「ashita」という響きに、
私は「実存者」でなくなり欠けていた。

「il y a」
ただ、そこに「ある」
レヴィナスはフランス語のこの非人称表現に着目し、
「実存主義」が最盛期を迎えかけている
1947年に本書を上梓した。

彼の意図するところは、第一に、
ハイデガーからサルトルへと至る「実存主義」批判だと思う。
絶え間ない投企の繰り返しとしての実存。
自我。主体。
というサルトルの存在論は、
しかしながら、ひどく権威主義的な主体論に行き着く。
ハイデガーがそうであったように、
そして共産主義の帰結であるスターリンも。
彼らの「脱自」の考え方は、あくまで即自、対自の弁証法なのです。

カミュはいち早くヘーゲル、ハイデガー、サルトルの流れに
違和感を感じていたけれども、
時代は明らかにアンガジュマン全盛期。


そこへ、レヴィナスは「il y a」というアンチテーゼを突きつける。
「いや、存在はそんなに決断とかの連続じゃない」
もっとアクシデントのような、出来事としての存在である。
決断は実はそれほど投企じゃない。
なにか得体の知れない「ある」が底流として、そこに「ある」


殊に「疲労」についての論考は面白かった。
「疲労は自己と現在とに対する遅延を刻印している」
しかもレヴィナスは「疲労」こそ「脱自」と捉えているあたりが傑作でした。

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なぜかこの本を読んで少し元気になった気がする。
今は「気がする」だけでいい。

私は段々と自分が何をすべきで、
何が出来るかということがわかってきた。
私に何が向いているかもわかった。

羽生さんが言っていた。

・毎回石橋を叩いていたら勢いも流れも絶対つかめない
・積極的にリスクを負うことは、未来のリスクを最小限にすること
・リスクの大きさはその価値を表しているものだと思えば
それだけやりがいが大きい
・直感力とは物事の進むべき道筋を示す“羅針盤”のようなもの
・温存しとこうとか、あとで使おうというのはダメで、
今持っている力は早く使い切ったほうがいい


人生において、
勝負を賭ける時がきている。
そうしないと、この先十年、確実にじり貧だ。


レヴィナスから羽生さんへ。


文藝春秋3月号で読みました。
こちらについても、
率直な個人的感想を書いてみようと思います。

______________________________


全体としてはそこそこ面白い。といった感じです。

まず問題にしたいのが、
「私小説」ということについてです。

作家である西村さんが作品に対して投げかける視線は、
一種独特な、非常に醒めきった眼差しなのです。
この小説の良さは、明らかにこの作家と作品の距離感にある。

いわゆる「私小説」と呼ばれる作品の多くは、
一般的に感情過多な傾向が強い。
時には自分の惨めな境遇を託つばかりの、
やけにねっとりした、感傷的な小説が多い。

しかし『苦役列車』はそうではない。
作家が作品にあまり近寄らず、
あくまで三人称を保ち、淡々と物事を綴り、
そこから物語を醸し出している点がとても優れている。

「私小説」と自ら呼びつつ、
あまり「私小説」らしくない点がいいと考えます。
私はこの冷めた態度が結構好きです。
三人称を用いる私小説というのは
少なくありませんが、
そんな中でも確かに成功している方と考えます。


しかし、「私小説」家の弱点とは、
まさに自分の経験に頼りすぎる点でもあるのです。

西村さんは、中卒で逮捕歴があることこそ我が財産、
と公言しておられる通り、
この二つの経歴、それにお父さんのことも含め、
誰がどう見ても黒歴史と呼べる経歴は、
確かに有力な武器でもあります。

なぜなら、彼こそは「中卒」を語る資格があり、
「逮捕歴」を語る資格があり、
「性犯罪者の子」を語る資格がある、
と考えられるからです。

そして、これらの「資格」を持っている、
実はたくさんいるかもしれない人たちと、
皆さんは出会う機会がそれほどないでしょう。
なぜかというに、
彼らは概して「言葉」を持たないし、
西村さんのように「言葉」に変えて、
それを武器として使わないから、
あるいは使えないからです。

しかし、もし、経験という武器に頼りすぎると、
私小説家はどうなるか?
私生活を切り売りして見せないといけないので、
売るべき私生活がなくなってしまうということが
まず始めに起こる。
その上、読者は提示された私生活にすら、慣れてしまう。
さらに、同じ経験のヴァリアント作品が多くなる。

その結果、私小説家の小説の多くは、
はじめはインパクトがあったのに、
段々と単調な印象になっていく。
なぜなら、読者は、
私小説家として打って出られた方の小説を読むとき、
小説だけでなく生活も作品の一部として、
読んでいるからに他ならない。

つまり、小説だけで勝負していないのです。
私小説家は、
必然的に、小説作品+自分の私生活、で勝負せざるを得ず、
それが前提として出来上がってしまう。

だからこそ、読者は飽きるのがはやい。

もしもこの単調を打ち破りたいと思えば、
今度はあえて私生活を小説化するために、
さらなる破滅を目指さないといけなくなる。
その好例が太宰治の例です。

生活の小説化、小説の生活化。
私小説家の弱点はここにある。


さて、あえて欠点を言わせてもらうなら、
『苦役列車』はとても単調な小説でもあります。
緩急がついていない。
そういう意味で、すでに西村私小説の弱点が、
私は現れていると感じる。

確かに、この経験は面白いし、文体も個性的だと思う。
日下部との会話は時にユーモラスだし、
風俗の件なんかは笑えるところもある。
加えて、奇妙にも朝吹さんと一致しているように、
西村さんも食事の、食べ物の描写が実に上手い。

しかし、決定的に勢いとスピード感がない。
西村さんの経歴からして、私は勝手に、

エネルギーに満ちあふれた、
野心的で、粗雑な要素もあるけれども、
優れた作品なんだろうと思っておりました。

しかし、一読、
文体は、良い意味では完成された、
悪く言えば小さくまとまった文体。
作家の性格は善良でむしろ小市民的なのが如実。
インテリに対する憧れが、
そこはかとなく内容、形式の両方から表れている。

なんていうか、西村さんはちょっと冷めすぎている。
エネルギーがない。
つまり、なんか閉じた作品として感じてしまう。
完成度は確かに高いのだけれど、
その高さが逆に、学術的な要素を垣間見せ、
逆説的ながらインテリの作品なのです。


私は勝手に、セリーヌの呪詛に充ち満ちた
『夜の果ての旅』なんかを想定していた。
だから、その全く違った冷めた印象に、
少し驚きました。
全然粗削りではなく、完成している。


優れた小説に間違いないけれど、
私自身の欲望・希望・願いを言えば、

怒りとエネルギーに満ち溢れた小説こそ、
今読みたい。






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プロフィール
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海馬浬弧
性別:
女性
自己紹介:
言語学者、哲学者、文学者、サイバネティック学者である、
海馬浬弧による本、映画、アニメ、音楽、その他、
あらゆることに関するレビューログ。
私生活については一切書きません。7カ国語堪能。
独断と偏見に充ち満ちているため、不快に思われる方もいらっしゃるでしょうが、これも現代の歪みの一つだと思って、
どうかお許し下さいませ。
リンクは才能豊かな知人の方々なので、ぜひ。
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