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あらゆる事柄に関するレビューログ。 #kaibaricot
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去年、待望の最新刊が発刊されたハルヒ・シリーズ。

これから読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、
あらすじとかそういう部分は抜きにして、単なる感想を。


読んでいて、なんか色々と考えさせられました。
筋が面白いのはもちろん。
「これからどうなるんだ?」という先が気になる感じは
『消失』の時と似たような強度で、夢中になって読み終えました。

で、本作を読んで何を考えたかというと、
自分自身の「日常」についてです。

私は現在、全くもって強固な現実の一部分として、
毎日死へ向かって生きております。
気がつけば、自分ももはや高校生でも大学生でもなく、
一個のありふれた社会人として生きている。
社会人歴も新人としての域を出てしまっている。
上を見ても、下を見てもきりがない。
私は上しか見ませんが。


中身は案外子供のまんまで、
大人になりきれず、どこか人生をいい加減に考えている自分。
それではいけないと思いつつも、
このラノベを読むと、なんだかそれでもいいと思ってしまう。

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ライトノベル、
ひいては小説という具体的な物の「意味」について考えていました。
「読書」という行動は、現実逃避の一種ですが、
「ゲーム」などの現実逃避と異なっている点は、
「読書」が行動に向かう点だと思います。
(全部ではありませんが)
しかし、読書のための読書、すなわち大学院的研究は
決して行動に向かわないと私は確信しております。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


周りを見回して、最近、自分も含め一体なんで生きているのか、
とふと思う。
毎朝満員電車で人間の臭さに閉口しつつ、
こんな毎日の意味と、一生懸命頑張っている人たちを見比べて、
自分はなんだと思う。

みんなみんな一生懸命生きている。
つくづくそう思います。


なぜかハルヒを読んでいると、日常について考えさせられる。
それはたぶん、ハルヒ的な非日常をキョンのように求める心が
誰しも少しはあるからだ。
そして自分のいる世界と比べて、げんなりしてしまう。
ーー今書いた事は、当たり前の事だ。
誰しも分かっている。


あなたも私も、重苦しすぎる日常に沈んでいるとして、
明日もあさってもそれが続くとして、
そんな日常が嫌だと言っても、
毎日自分たちが行っている行為は、
日常を守るための行為でしかない。


何かこの本を読んでヒントを得た気がするのですが、
うまく言葉に出来ずにいます。


ただ一つだけ言えるのは、
現在のような状態を長く望んでいない、ということが、
私はこの本を読んで非常によくわかった、ということです。

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Chris Marker "La Jetée" 1962

クリス・マルケルの映画は見ることのできるものが少ない。
そんななか、La Jetéeは最もクリス・マルケル映画では見やすいものだ。
DVD化されているし、この26分程度の短い異色作は
いつ見ても詩的で美しい。

クリス・マルケルはかなり変わった経歴の持ち主である。
それはよく知られていること。
いまではウィキペディアを見ればすぐわかる。

親日家でもあり、日本に関連するドキュメンタリーを数多く撮影している。
なかでも『ラ・ジュテ』とともにDVD化されている『サン・ソレイユ』、
あるいは黒澤明に関する『AK』、他にも『不思議なクミコ』等色々ある。
またヴィム・ヴェンダースの『東京画』にすらちょっと出ている。

それでもクリス・マルケルはあまり知られていない。
ドキュメンタリー映画界の巨匠であり、いわゆる「シネマ・ヴェリテ」派。
フレドリック・ワイズマンとかそういうドキュメンタリー監督と異なり、
編集(モンタージュ)に非常なこだわりをもった一派である。

モンタージュは原理的にはドキュメンタリーと相反する行為である。
モンタージュとは本質的にフィクションのための作業なのだ。
なぜかというに、編集(モンタージュ)とは、ある現実を、
監督の意図に従って、恣意的に並べ直し、切り貼りする行為だからである。

ゆえに「シネマ・ヴェリテ」一派は、
その冠するところの「ヴェリテ(真実)」に近づくためには、
あえて「フィクション」の作業が必要と考える一派なのである。
この考え方は近松門左衛門の「虚実皮膜」に似ていると思う。

もう一人有名な「シネマ・ヴェリテ」派は、
これまた私の大好きなジャン・ルーシュがいる。
ジャン・ルーシュは民俗学的なドキュメンタリーが多いが、
傑作『人間ピラミッド』や『ある夏の記録』がある。


ドキュメンタリー映画が最も好きな映画のジャンルである私は
フレドリック・ワイズマンなどのいかにもアメリカ的な徹底したリアリズムと、
フィクションとリアリズムをごちゃまぜにするシネマ・ヴェリテ、両方好きです。

ただ、クリス・マルケルは決して単なるドキュメンタリー作家ではない。
この『ラ・ジュテ』しかり。
写真家でもあり文筆家でもある。
『ラ・ジュテ』を見ればそのことはすぐ分かるだろう。
彼自身が撮影した印象的な写真群を駆使し、
フォト・モンタージュと言われる手法を最も上手く機能させた
素晴らしいフィクションも作成している。


残念ながら去る7月29日に鬼籍に入られたが、
この機会にぜひどこかでレトロ・スペクティブなり、
DVD全集なり出して欲しい。
私もあまり多くの作品を見ることが出来ていない。


いまだに『ラ・ジュテ』を見たときの衝撃は忘れられない。
当時は大学生で、クリス・マルケルのことを何も知らず、
ふと新宿のTSUTAYAで手にとって借りたら、大当たりだった。
それから、クリス・マルケルのことを色々調べた。
フランスに留学していたころは彼のDVDで手に入るDVDは
あらかた手に入れ持ち帰ったし、
彼の象徴であるところの「Monsieur Chat」



の落書きを探してパリの端から端まで歩き回った。

機会があればぜひ見て欲しい。
まずは『ラ・ジュテ』から、そして『サン・ソレイユ』へ。
もし機会があれば『ベトナムから遠く離れて』も。

またもしも、お気に召したなら、新宿ゴールデン街にある有名店
『ラ・ジュテ』へも足を運ばれたらいかがだろうか。


P.S
なお、私はいまもクリス・マルケルのように生きようと思っているし、
ここ数年でそのような人生になるだろうと確信しています。


溝口健二監督の代表的傑作。


この映画を見たのは二度目です。
随分久しぶりに見ました。

はじめてこの映画を見たのは京橋のフィルムセンターです。
前にこのブログ上で紹介した『日本映画ベスト150』では14位にランクインしてて
見たい見たいと思っていたのですが、
なかなかこの映画を見ることが出来ずにいました。

そうそう、
『日本映画ベスト150』をまとめたサイトを発見しました。
日本映画ベスト150
個人的にはこの時点の順位が非常に正しいと思います。
もしも現時点で「日本映画ベスト150」をやったとしたら、
たぶんとても笑える順位が出来上がると思う。

それはともかく、この映画を再び見る機会を与えて下さった、
店長に感謝です。


再び見始めてみると、意外としっかり覚えているもので、
田中絹代が素晴らしいのです。
三船とか宇野重吉とか出てるけど、全然目立たない。
田中絹代は千両役者というか。銀幕映えしますね。
カリスマ性がある。
声もよく通るし、すれっからしの関西弁も、
そこはかとなく品性を感じさせる。
そういう役。

すべての女性にとって、重要な物語なので、
とくに女性には見て欲しいと思う。
このような物語の類型は
たぶん外国の作品とかでも枚挙に遑がないでしょう。
仏文系の頭からすると、
モーパッサンの『女の一生』、
フローベールの『ボヴァリー夫人』しかり。

でも、私は一代女のほうが優れていると思います。
第一、「一代女」という表現がいい。
一代っきりなんですね。
二代目とかそういうのを欲していない。
でも英語になると、ご覧の通り「Life of Oharu」になる。
これは『女の一生』の原題「Une Vie」に近いニュアンスでしょうが、
一代女という、『源氏物語玉の小櫛』でいうところの
「もののあはれ」感がないですね。


それに、『西鶴一代女』は最後まで現実的なのが好きです。
ラストはひどく淡々としている。
観客に同情を乞うわけではない。
ただ淡々としている。そこがいい。
全編を通じてユーモアもある。分かりやすい話。

『雨月物語』のほうがより詩的かもしれませんが、
私は『西鶴一代女』のほうが面白いと思います。


この夏の終わりにいかがでしょう。
古い日本映画の中に新しいものがあるとつくづく感じます。


まずは黙って聴いてほしい。
すでに何度かこのサイト上でご紹介していますが、
最近は特にLeiaが頭の中で響いています。



Leia


Palette


Just be friend


ダブルラリアット


Rip=releaseとLuka Luka night fever


初音ミクさんばかりがVocaloidではありません。
私は断然ルカさん派です。
元の声は浅川悠さん。
浅川さんも結構好きな声優さんです。
低音や英語の歌詞は、ルカさんのほうが私は優れていると思います。
一方でミクさんは汎用性が高く、様々な歌を歌いこなす。
ルカさんは結構ハードロックもしっくりくる。
『トエト』なんかは、私はあんまりルカさん向けではないと思っています。

LeiaやPaletteが真骨頂。
暗くて激しいロック。
浅川さんっぽい。

歌詞も「うっすら」中二病的で、ほどよく陶酔しています。
JBFなんかは別冊マーガレット的な歌ですが、
いい曲ですね。


1953年にアイラ・レヴィンが23歳の時に上梓した作品。

23歳の時点でこのような作品が書けるとは……
はっきり言って天才です。
天才の仕事です。


読もう読もうと思ってなかなか読めずにいました。
途中まで読んでいたのですが、
忙しさにかまけて、しばらく遠ざかっていた。
でもようやく、土日を含む4連休がとれて、
昨日から一泊二日で甲府へ小旅行へ出かけました。

私の目標はあと1〜2年のうちに日本全国都道府県を制覇する、
ということなのですが、これで残すところあと8県ばかり。

さて。
行きの中央線でこの本をずっと読んでいたのですが、
驚嘆しました。

田村隆一とか、そういう一流の詩人が本作を認めている理由も
実によく理解できます。
物凄く面白い。
何が面白いかって、エンターテイメント性も芸術性も、
すべて含んでいるのです。
さらに、形式(構成)の妙もある。

一章において、作者は意図的に主人公を「彼(He)」としてしか表さない。
それゆえ、二章では一体誰が犯人なのか、読者は考えさせられる。
三章では犯人はもうわかっているが、今度はどうやって犯人を追い詰めるのか、
そこに主眼が置かれている。

なにより私にとって好ましいのは、推理小説にありがちな、
読んでも理解できない、現実の事件ではありえない難解なトリックとか、
内容稀薄な動機ではない、という点です。

私は実際の犯罪、犯罪小説でも、
最も「動機」を重要視します。
現実には絶対にコナン君的なトリックはありえない。
犯罪はその9割がもっと衝動的で感情的なものなのです。
一見動機のない事件、あるいは動機らしい動機に見えない事件も、
犯人にとっては最もな動機(原因)が必ずある。


『死の接吻』の犯罪は徹頭徹尾論理的な動機で、
且つ常識的な手口なのです。
作者が追いかける、殺人者の心理、殺される側の心理は精緻そのもの。
細かい心理描写と、
なぜ主人公がこのような「コンプレックス」となったかという背景描写、
彼の経験描写が緻密なのです。
もちろんここで私が言う「コンプレックス」とは語の意味本来の
「複合体」という意味であり、「劣等感」という誤訳ではありません。

どのようにしてこのような殺人者が出来上がったのか、
とてもわかりやすい。
そして現実的なのです。
50年以上も前の小説とはとても考えられない。

確かに、この小説には『陽の当たる場所』的な、
青年の野心と、その実現のためには犠牲も厭わない、
というマキャベリストチックなものが描かれていますが、
それだけではない。
なぜならこの青年はとても現実的なのです。
この青年は現実的という意味で、至極現代的です。
しかし一方で、大きな野心を持っているという点で
現代的でないとも思います。


「野心」
この言葉はもうあんまり聞かない言葉。
「一旗あげる」とかもそうかもしれない。
誰も野心を持っていない。

夢と野心は違う。
野心はより、ギラギラした、若者のエネルギーなのです。


……それにしても。
驚くべきストーリー構成と第一級の心理描写。
『ボヴァリー夫人』もビックリでしょう。
23歳でこれを書いたというのだから信じられない。
不遜な小説。


この夏にいかがでしょう。
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プロフィール
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海馬浬弧
性別:
女性
自己紹介:
言語学者、哲学者、文学者、サイバネティック学者である、
海馬浬弧による本、映画、アニメ、音楽、その他、
あらゆることに関するレビューログ。
私生活については一切書きません。7カ国語堪能。
独断と偏見に充ち満ちているため、不快に思われる方もいらっしゃるでしょうが、これも現代の歪みの一つだと思って、
どうかお許し下さいませ。
リンクは才能豊かな知人の方々なので、ぜひ。
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