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あらゆる事柄に関するレビューログ。 #kaibaricot
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今期のアニメは、私はほとんど見ていないけれど、
その中で勉強のため二作品見ることにしました。

まず、『神様のメモ帳』
渋谷在住、ニート探偵のアリスが一歩も部屋から出ることなく、
「検索」を武器に事件を解決する。
24のクロエなみのPC能力を持っているから、
とにかくハッキングとアーカイブの検索を駆使し、
それだけですべてを解いていく物語り。
やはりラノベの「電撃文庫」から。

概要を見てみると、面白そうな話だけれど、実はそうでもない。
初回はそこそこ見られたんだけど(一時間拡張版)、
いくつかすんなりとはいっていけない点があるし、
ある意味、ラノベ界、アニメ界、
漫画界の行き詰まりを非常に感じさせる作品。
以下、私的な問題点を三点挙げます。

第一に、アニメの入り方。
これは昨今のラノベ、アニメ、
そして漫画において共通していることだけれど、

どれもこれも主人公による「毎日はつまらないことの繰り返し」
「人生は暇つぶし」的なモノローグから始まる。
そのような繰り返しの日常が、繰り返しでなくなるトリガーとして、
必ず出会いがあるわけだけれど、ある人物と出会って、
引きずられて、不本意ながら非日常に没頭していくーーという、
とてつもなくありふれた展開。
全く新鮮さなし。

確かに、いわゆる「読者的な人間」とは、とりわけラノベにおいて、
誤解を恐れずに言うと、リア充人間は少ないと思われます。
そもそもリア充していたらアニメやラノベ、あるいはゲームという世界へ、
没入していく契機はなかなかない。
だからこそ、こういう出だしなのはわかるが。。。

日本人的独創力の特徴とはしたがって、
リアルに不本意な大多数の人のために、
逃避空間を創造する能力に優れていること。


第二に、主人公アリスの「口癖」
これは古くから使われた手法ですが、あの話し方が私には鼻につく。
ナルトが苦手なのはまさしく彼の「ってばよ」語調なのと同様に、
アリスの話し方が苦手。
ともあれ、他のキャラクターとの差異を際立たせるため、
語調を変えるといのは、とてもよく用いられる手法です。
やはり「電撃文庫」からハイ・ファンタジーの『狼と香辛料』、
ヒロインのホロの口調もしかり。
このキャラ分けはいささか安易すぎないでしょうか。
本当に個性的で魅力的なキャラは、口癖に頼らないはず、
と思う。


第三に、サブキャラの設定が典型的。

なんだこの魅力の全く感じられない、二番煎じ的で薄いキャラ達は。
そもそも主人公の男子高校生は、やはり「電撃文庫」の『デュラララ!』
の帝人そのものじゃないか。
少し群像劇的な要素を借りてきた、薄いキャラたちには、
全く新鮮味を感じられない。

じゃあ見るなよって感じでしょうか。
「新しいもの」を作るためには、
常に文脈を捉えておかないといけないので。
それに私はこの作品全否定ではないです。
面白い要素もチラホラある。
部屋から一歩も出ないで「検索」を武器にするとか。




神様ドォルズ

典型的ロー・ファンタジー。
漫画原作。
ゆえに話は一応ノベルである『神様のメモ帳』のほうが良くできている。

でも、なんて言うんだろう。
これもすごい二番煎じ。

まず田舎の因習みたいのから逃れられない、
血塗られた過去、記憶みたいのから、
すぐに『ひぐらしのなく頃に』を想起。
要はそういう現実世界に「案山子」なる非現実要素を組み込んだ物語り。

案山子はペルソナとか、古くはスタンドみたいなもので、
ちっともこう新しさがない。

逆にこのアニメの利点はOP曲です。
なんかすてきに奇妙な曲なのです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上です。

どうも頭打ち観が否めない。
ロー・ファンタジーの場合、現実を舞台とし、
そこに要は魔法とか、今回で言えば「案山子」とか、
「ペルソナ」とか、「デュラハン」とか、「魔法」とか、
そういう異質な要素を盛り込むわけで、
『デュラララ!』の時は非常にうまく各物語が絡み合ったから面白かったけれど、
もうなんか『ハルヒ』を頂点に落ち目というか。
ロー・ファンタジーで出来ることない気がする。

それに対しハイ・ファンタジーは、
一から世界を創造する必要があるので、より高度な想像力が必要なのですが、
こっちの世界にはまだ余地がありそうな気がします。
過去には、というか現在も継続中である、小野不由美の『十二国記』
世界一長い物語り、栗本薫『グイン・サーガ』
両者ともラノベ小説家ではなく、作家ですよね、しっかりとした。

より強靱な想像力に基づいた物語り。

かつては、宮崎駿も自分の作品を映画化していた。
それがいつからか、原作ありきの映画化になり、明らかに面白くなくなった。
本当の作者なら、一から自分だけの世界を創りたいと望むに違いない。
誰か人の作品を映画化するなんて、衰弱ですよ、実際。
全部自分でやりたい、私なら。
『ゲド戦記』はル=グヴィンの天才的なハイ・ファンタジーなのに、
吾朗さんがとてもしょうもない作品にしてしまった。
『アリエッティ』も原作あるし。
なんか吾朗さんもアリエッティの監督さんも、
若いのに優しいおじいさんみたいだなと思う。
もっとギラギラした、若い頃の健さんのような目をしないと。

もちろん、原作ありきの作品を、非常にうまく演出できる、
二次創作の得意な方もいらっしゃいます。
黒澤明監督なんかは両方できる。
『羅生門』なんかは、『藪の中』を混ぜ込んで、
仕上げたその驚くべき好例ですし、
映画監督には本来このタイプが多い。
タルコフスキーの『ソラリス』もそう。
原作も抜群ですが、映画も映画で面白い。


いま必要というか新しいものは、
明らかに強靱な想像力に裏打ちされる、
ハイ・ファンタジーであると私は確信しています。


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最近、私はなぜ政経を目指さなかったのか疑問に感じています。
文学には飽きてきているので、こういう経済関係の本ばかり、
仕事上読んでいます。

一つの「飽きた」大きなきっかけは、とある学会において、
有名な先生方が、3・11震災以後の文学みたいなテーマで語られたんですが、
それに物凄く失望したからです。
もちろん震災以前にも似たような感情を何度も抱いたことがあります。



だからといって、いまさら日経文庫から出ているマーケティングの本を読んで、
どうしようっていうのでしょう。

(マーケティングは勉強すればとても面白い。
様々な場面で活かすことができます。
会社というゲゼルシャフトにおいてもそうだし、
あるいはゲマインシャフトにおいて。
また、自分自身の売り出し方についても考えさせられる。)


私はただ、この本に出てくる次の文章が忘れられない。

「すべての人は、去年より今年、今年より来年、
もっと幸せになりたいと考えています。」

この何気ない一文は私に様々な事を考えさせました。

たとえば甲斐バンドの名曲『らせん階段』で
「この世の中を何もなく晴れた日を目指し、
調子よく風にまかせて渡ってゆく奴もいる、
つまずいては立ち上がり、
よろめきながら生きている、
そうさ、ほとんどの奴がただ落ちていくだけ」
という歌詞をまず第一に思い浮かべました。

ほとんどの奴がただ落ちていくだけ




この意味がわかりますか?

坂口安吾の『堕落論』で、
少年少女の心中について書かれていたと記憶していますが、
(手元にないので記憶ですみませんが…確かです)
なぜ彼等が心中したのか、それはまさしく「墜ちる」ことを阻止するために、
です。


マーケティングについて考えるうちに、幸福と不幸の関係、
上ることと墜ちることについて、いたく考えさせられました。




ポルトガルの伝統音楽「ファド」を取り入れ、
世界的成功を収め、その名を轟かせたドゥルス・ポンテス。
彼女の代表作「海の歌」

偶然、ある番組を録ろうとしたら、この番組が録れていた。
それまで私はドゥルスのことをしらなかった。

たまたま映っていたシーンが、
夕方の室内で、リラックスしてピアノを弾いているドゥルスだった。
斜めに傾いた橙色の陽光が、
部屋にかけがえないコントラストを作りだし、
ピアノの旋律は素朴そのものだけれどリリック。
飼っている犬は寝そべり、とてもゆったりとした映像だった。
なんとはなしに見ていると、
とても素晴らしい歌だったので、調べてみる気になりました。

この番組は、最近フランスで有名な18区から出てきた、
ジプシー音楽みたいな色々組み合わせたZAZを取り上げたりしているので、
気になっていました。
私はちなみに18区文化圏ではありません。
5区文化圏。スフロ通り。


それにしても、ドゥルスの歌声は素晴らしい。
心へ直に届くような熱情はなんだろう。
ポルトガルの演歌、でしょうか。
こぶしがきいている。

なんか泣けてくる。
これだけがっぷり四つに歌に取り組む日本人は最近見たことないから。

とても、いい。




同じことを考える方は常にいるもの。
自分だけの思いつきは少ない。

本日の日経新聞の夕刊に諸田玲子さんが
『セイム・タイム、ネクスト・イヤー』について書いていた。
その簡潔なシノプシスをお借りすると
「ひと夏のアバンチュールで結ばれた2人が素性も連絡先も告げないまま
それぞれの家庭に戻り、年に一度だけ、同じ場所で逢瀬を続ける」という芝居。

要するに「不倫」というテーマを、独特のセンチメンタルな切り口で、
見せる芝居なのです。
この劇は非常に複雑な人間というものをさらけ出す。
お互いのことを想いつつも、それぞれの夫や妻、そして子供の話もする。
そして、なんとその逢瀬が25年も続く。
そして25回目のデートの時、果たして何が起こるのか!?

それは読んでみてください。
恋愛は人生においてとても大切なものです。
一人だと考えも偏ってしまいます。
そういう意味でバタイユも「一人だと遠くへいけない」と言うのだと思います。
他者と共にいることは、とても刺激的で常に新しい。

かくいう私も、同年代のご結婚されている方々より長きにわたって、
とても大切な一人の方と一緒ですので、その点痛感し、
かつこの物語りには心抉られるような気持ちにさせられるのです。


・・・最近、生きるための活動が忙しくて、
なかなか読書できないような、読書しても仕事関連のビジネス書ばかり、
新聞二紙というような状況。
しかし、なんとか打開してみせます。
自分の力で税金払ってご飯を食べつつ、作品も制作する。
作品でご飯食べられないなら、ひとまず働くしかない。
それに「仕事」から得られた物も少なくなく、
「仕事」のジャンル・内容においてもかなり上手くやれていると思っています。
私のようなほぼ天涯孤独人間に選択の余地はない。
地元がないなら作ればいい。
居場所も作ればいい。
とにかく謙虚に努力し、感謝を忘れないようにしないとですね。

だからこそ『セイム・タイム、ネクスト・イヤー』
グッときます。

これは私のあんちょこです。
新潮社刊。
レコードとなっていますが、もちろん大半CDとして出直している。

本当は、カトリーヌ・ミュレーさんのフラワーレッスン番組について、
書こうかと思ったのですが(というのも、
カトリーヌ・ミュレーというキーワードでここに辿り着いている方が、
とても多いご様子なので。アクセス解析の結果)、
それは今度の機会にします。

さて、私のささやかな楽しみは、この本に載っているCDを買うこと。
付箋だらけで、色々線を引きまくっています。
またところどころに挟まれているJazz好きの著名人の方によるエッセーも面白い。
安西水丸さんのエルビン・ジョーンズの話など、
とても臨場感があって、愛らしい。

また、いわゆるジャズ・ジャイアントを何人か取り上げ、
それらの人々に関する小エッセーも面白い。
コルトレーンやマイルスなど。
やはり二人は、いつも思うけれど常に変貌を遂げている。
マイルスは本当にそうですね。
『クールの誕生』(1949)、
『カインド・オブ・ブルー』(1959)
『ビッチェズ・ブリュー』(1969)
この10年ごとの歩みを見ても凄いと思うし、
その間に出しているアルバムも、様々なものがあります。
例えば57年には映画『死刑台のエレベーター』を見て、
即興的に吹いた傑作があるし。

あくなき探求、変化の連続。

コルトレーンは初めは非常に評価が低かったのが、
メキメキと頭角を現し、ヴィレッジヴァンガードでドルフィーと、
スリリング溢れる演奏を繰り広げる。
私にとってもコルトレーンは神です。
実は後半の65年以降はあんまり好きではないのですが。

ビル・エヴァンスなんかの話しも面白いですよ。
彼のほとんどのアルバムに参加している、
天才ベーシストスコット・ラファロは夭折して本当に残念です。

この本には、日本のJazzも載っており、前にご紹介させて頂いた、
板橋文夫さんや加古隆さんのアルバムもあります。

私のJazzあんちょこの一つ。
ささやかな楽しみ。
三次的読書物。

入門編としてもおすすめですので、もしジャズにご興味おありでしたらぜひ。

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プロフィール
HN:
海馬浬弧
性別:
女性
自己紹介:
言語学者、哲学者、文学者、サイバネティック学者である、
海馬浬弧による本、映画、アニメ、音楽、その他、
あらゆることに関するレビューログ。
私生活については一切書きません。7カ国語堪能。
独断と偏見に充ち満ちているため、不快に思われる方もいらっしゃるでしょうが、これも現代の歪みの一つだと思って、
どうかお許し下さいませ。
リンクは才能豊かな知人の方々なので、ぜひ。
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