あらゆる事柄に関するレビューログ。
#kaibaricot
1971年、加藤泰監督。シリーズ7作目。
鶴田浩二、若山富三郎、待田京介、大木実。
藤純子は美しい。
映画の中でも、ある登場人物が彼女に、いまわの際に、
「俺が見たものの中であなたは一番きれいだ」みたいなセリフがあります。
納得です。
藤純子演じる矢野竜子は確かに、綺麗なのです。
こんなに綺麗な人今、いません。
娘が寺島しのぶなんて信じられない。
寺島しのぶはダサすぎるのに。
ただし本作は、緋牡丹シリーズでも、中くらいの出来です。
加藤泰監督は素晴らしい監督ですが、
これは第6作目の『お竜参上』よりだいぶおちます。
理由1。
お竜さんに助っ人がいない。
そのため、ラストの斬り合いはお竜さんの一人舞台である。
待田京介は小物止まりだし、緊張感の高まりないまま、
ラストの斬り合いに突入する。
それもある意味なし崩し的に、メリハリなく開始する。
残侠伝のように、「ご一緒願います」的な強力な助っ人がいないと、
やはり面白くない。
それに初七日での斬り合いはなしですよ。よくないですよ。
理由2。
鶴田浩二がわりと早めに殺される。
もっと鶴田浩二を強調しないと!
鶴田浩二は聞くところによると加藤泰とひどく仲が悪かったとか。
そのせいかな〜と思ったり。
理由3。
話が雑。
なんなんでしょう、あの陸軍大臣は?
あのエピソードはわけがわからない。
結論。
藤純子は綺麗ですが、歌は下手です。
助っ人は重要。
ラストの斬り合いは、緊張感が大切。
それにつけても、
お竜さんの喪服の斬り合いはかっこいい。
途中、髪を振り乱して、緋牡丹の刺青を喪服の裂け目から見せます。
これを機にもっと初めから見直そうと思いました。
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『Adieu, l'ami』1968年。
ジャン・エルマン監督。
アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン。
『シンデレラの罠』で知られる、
セバスチャン・ジャプリソ脚本。
佳作です。
アラン・ドロンとブロンソンの友情がいいです。
女性の私にとって、やっぱりドロンのかっこよさはくらっときます。
ブロンソンもいい味出しています。
要するにお金を盗もうとする話。
しかし事はうまく運ばず、、、
『死刑台のエレベーター』みたく、閉じ込められてしまう。
そこで芽生えた男の友情。
二人はお互いを決して裏切らない。
ラストーシーン、最後の最後まで必見です。
アラン・ドロンのかっこよさが光る。
典型的なフィルム・ノワール。
今日は短めにまとめて、このへんで。
こんな映画ばかり。
今日も一本見たし、明日はまた任侠映画です。。。。
La petite voleuse (1988)
クロード・ミレール監督。
本作の原案はトリュフォー。
トリュフォー亡き後に弟子のクロード・ミレール監督が映画化。
確かに、トリュフォーの『大人は判ってくれない』の女の子バージョンです。
そして『大人は判ってくれない』より、なお現実的です。
というか、冷淡。
淡々と描いております。
ヒロインはシャルロット・ゲンズブール。
『なまいきシャルロット』
『シャルロット・フォーエバー』
に続き、シャルロットの蒼い肉体が、そんな多くないけど出てきます。
前より成長しているけれど、胸とか、ほんと蒼い。
たまらない人にはたまらないでしょう。
しかし、私はどうも、あのしゃくれた顎が気になって仕方ない。
シャルロットってなんであんなにしゃくれてるのか?
バーキンもちょっとしゃくれてるからかな・・・。
『Anti-Christ』は日本にくるのだろうか?
さてさて、好みはあるでしょうが、
若かりし日のシャルロット作品は、
どれも全く種類の違う作品ですが、私はこの作品をおすすめしたいと思います。
『シャルロット・フォーエバー』も『なまいきシャルロット』
も特殊な映画で、それはそれで見所のある映画なんですが、くせがあるんですね。
『シャルロット・フォーエバー』とか父のゲンズブールの映画だから、
ちょっといっちゃってるし。
『小さな泥棒』はある意味、もっとも見やすい映画です。
淡々と、シャルロット演じるジャニーヌの転落人生を描いている。
時代設定は戦後のフランスの片田舎。
田舎のうだつの上がらない生活は日本も同じ。
田舎ってヤンキーばっかでさ。
やることないから、やることといったら・・・みたいな。
みんなバカで、偏屈で。理解とかなくて。可能性もなくて。
嫌気がさして、フラストレーションたまって盗み癖。
それでもみんな貧乏で。
あげくのはてに刑務所入って脱走して。
妊娠して子をおろそうとして。
救いがない。
私はよく思うけれど、
人生って本当に不公平です。よくもわるくも。
生まれた環境、家庭でほとんどその人の人生が決まる。
自分が生まれ育った環境を、その環境が金持ちにせよ、貧乏にせよ、
いい意味で抜け出せる人、ごくわずか。
貧困。金持ち。
この映画を見て面白いのは、フランスの少女苑。
シスターたちが少女苑をとりしきってるんだけど、
シスターたちにあんな小さなあばずれ達をよく制御できるな〜ということ。
そしてシスターが怖い。
怒鳴るし、優しくない。
シスターって結構つよいんですね。
そんなフランス少女苑、シャルロットの蒼い肉体を見たければぜひ。
脇役も、33歳で自殺したシモン・ド・ラ・ブロスなどがおり、
安心して見れます。
夕陽のガンマン、セルジオ・レオーネ監督、1965年。
原題、For a Few Dollars More
最高です。
この映画を見たのは二度目。
マカロニ・ウエスタンの傑作。
クリント・イーストウッドには二人恩師がいます。
ドン・シーゲル監督とセルジオ・レオーネ監督。
そのうちの一人、セルジオ・レオーネの傑作。
「マカロニ」だけあって、音楽は巨匠、モリコーネ。
これがまたいい。最高の音楽を映像にくっつけているわけです。
そしてキャスト。
クリント・イーストウッド、
リー・ヴァン・クリーフ(ヴァン・クリーフ&アーペルみたいでしょ)
ジャン・マリア・ヴォロンテ。
三人が三者三様の男の生き様を見せてくれる。
それにしても私はこういう映画が好きですね。
かっこいいんだ。単純に面白い。
最近の映画は、こういう娯楽性と様式美と内容の三拍子そろった映画がない。
特に、最近の映画の弱い点は様式美。形式美です。これにつきる。
内容で「世界が泣いた」的なしょうもないキャッチコピーをつけるくせに、
残念ながら内容もない。
本作『夕陽のガンマン』は、賞金稼ぎのクリント・イーストウッドと、
わけあって賞金稼ぎに身をやつしたヴァン・クリーフが、共同戦線をはり、
ヴォロンテ一味と戦う。
クリント・イーストウッド演じるモンコは早撃ちの名手。
ヴァン・クリーフは類い希な狙撃手。
ヴォロンテも銃の腕前は絶品。
彼らの早撃ち対決は凄い緊張感。
ヴァン・クリーフがいい味だしてるんだよね。
彼がまためちゃくちゃ強い。
オルゴールが鳴り終わったところで、銃を撃ち合う。
日本のヤクザ映画は、アメリカでは西部劇になり、
それがヨーロッパになるとフィルム・ノワールになるんです。
健さんはクリント・イーストウッドと同い年で80歳。
フィルム・ノワールといえば、ジャン・ギャバンに始まり、
アラン・ドロンで頂点を迎える。
そのドロンが、健さんやイーストウッドとほぼ同世代。
こうやって考えると不思議ですよね。
フィルム・ノワールは非常にオシャレでニヒルな感じ。
『地下室のメロディ』のラストシーンなんて最高だった。
西部劇だともっと土臭くて、ならずもの臭が強い。デスペーラドってやつだね。
それに対し、ヤクザはもっと格式張った儀式的な世界。
それは客人として、他の一家に入るときの仁義の切り方に象徴されています。
どれが好きですか?
私はどれも好きです。
フィルム・ノワールから、アラン・ドロン。
西部劇からブロンソン。
日本から三船敏郎。
この三者を擁した映画が、『レッド・サン』
三船はヤクザではなく、武士の役。
だけども、三船が演じていた武士は、まさしく健さんヤクザの前身です。
義理と人情を重んじる任侠道に忠実なのは、武士もヤクザも同じ。
黒澤の名作『用心棒』の決闘シーンで、三船は仲代の鉄砲と戦う。
これを西部劇で焼き直したものが『荒野の用心棒』だし、
『七人の侍』は『荒野の七人』に焼き直された。
このように、侍(ヤクザ)映画と西部劇は明らかな近似性を持つのです。
そこで、ヤクザ映画の鉄則。
相手に銃を持っている人物は、必ず一人である。
だって、ドスに対して、相手に銃がいっぱいいれば絶対勝てない。
三船がいかにして、銃の仲代に勝つか?これも必見ですが、
夕陽のガンマンのイーストウッドたちのかっこよさは、
本当にいい。
音楽も絶品。
こういう娯楽映画を作れないとダメです。
松浦寿夫氏のバルト没後30年によせた小論考「いま少しの空気を」について。
短くて面白い論考です。
松浦氏だけに、バルトのあまり知られていない画描きの側面に焦点を当て、
彼のテクスト論と通底している部分があると鮮やかに解き明かしています。
私はバルトの絵を残念ながら見たことないのですが、
なんとなくこれを読んで想像出来る気がしましたし、
この論考には実はかなり重要な問題が含まれていると思うのです。
さて、松浦さんがまず絵画の前提として置くことは、
彼自身、自明すぎることと言っておられるように、
絵画とは加算型の芸術であるということ。
真っ白なキャンバスに、絵の具をどうしても足していかざるを得ない。
本質的に加算型の芸術であるわけです。
でもそれって文学でも同じですよね。
真っ白な余白を、文字で埋めていかないといけない。
そこで一つの疑問が生じます。
絵画において、絵を描きながらなおかつ、
画面を稀薄化することは果たして可能なのか?
それは極限的には、描く(書く)ことの放棄にたどりついてしまう。
加算的な作業をしながら、なおかつその作業に減算的な効果を与えなければ、
画面を稀薄化することができない。
バルトは理想とするものが、彼のテクスト論において知られているように、
「空」なので。
「空気」なんですね。
だから松浦さんも「いま少しの空気を」としているわけです。
空気を加算的な作業で書くのは至難の業です。
だからバルトは稀薄化を目指すわけですね。
文学において彼は、まず形容詞に辟易としました。
形容詞って、ほんと付加的というか、
ヘタな文章書きに多いですが、一つの名詞にわけのわからない形容詞の群れをつけ、
名詞からどんどん離れて陶酔するっていうか、書き手の自己満足っていうか、
ある意味、一時期の若書きの頃の三島由紀夫的なものを感じさせます。
でも三島にはもの凄い殺し文句みたいな隠喩も多い。
バルトはそういうわけで俳句を尊んだわけなんです。
話を絵画にもどすと、まあそういう「空気の空間」(ボードレール)を現出させたのが、マネ以降ということになり、マネから現代絵画が始まるとは、
いまはもう当たり前の事実のようになっていて、昨日のマルローさんが、
Musée imaginaireの独断と偏見の中で、
マネの絵画には何もないというようなことを語っているわけです。
それはさておき、
松浦さんはバルトの絵がサイ・トゥオンブリの絵に似ていると、
言っています。
しかし両者の違いは、トゥオンブリのそれは稀薄化に成功しているけれども、
バルトはただ単に無秩序で質が稀薄化されず、失敗していると。
私なりに解釈すれば、トゥオンブリは無秩序なりの秩序があるから静かだけど、
バルトは単に無秩序で「うるさい」というわけ。
これは、ピカソの絵と子供の落書きを比べるような問題で、
一体何が芸術なのか、という大きな問題にも発展します。
だから私は、大きな問題がこの論考には含まれていると言ったのでした。
だって、この論考には、隠された前提として、
「減算的なもの=芸術、いいもの」みたいな前提があるよ。
要はね、みんな稀薄なものがいいっていうんだ。
静かなものが。
つまりはおしゃれなものが。
私に言わせると、本質的に加算である絵を描くという作業を進めていった、
中心化していった作品にもいいものはよっぽどあると思うのですが。。。
バルトとか、ちょっと上品すぎるね。
『零度のエクリチュール』も確かに、詩のところでそういうこと言ってたよ。
稀薄化とか、その名の通り、エネルギーがない。
トゥオンブリのわけのわからない絵より、
三島の溢れんばかりの加算も、悪くない。と思う私でした。
俳句なんてじじくさい。
サイ・トゥオンブリ『レダと白鳥』
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独断と偏見に充ち満ちているため、不快に思われる方もいらっしゃるでしょうが、これも現代の歪みの一つだと思って、
どうかお許し下さいませ。
リンクは才能豊かな知人の方々なので、ぜひ。
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