あらゆる事柄に関するレビューログ。
#kaibaricot
1979年
宮崎駿なども絶賛して止まない、
世界を代表するアニメーション作家。
確かに凄いのです。
非常に寡作な監督ですが、
作品は皆、最高級の出来。
私的にも、アニメーション作家の中では群を抜いて、
一番であると確信しています。
日本のアニメーションに慣れ親しみ過ぎると、
このような作品に出くわさなくなるのは確かです。
どのような作品かというと、
つまり、切り絵アニメーション。
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アニメーションには様々なジャンルがあります。
日本はまずセルアニメーションが主流でした。
現在は、新海誠監督がほぼ一人で作り上げた『ほしのこえ』
などに代表されるように、
Adobeのソフト、After Effectsを使うのが主流。
他には、
ピングーなどのクレイアニメ。(粘土ですね)
川本喜八郎さんを代表とする人形アニメ。
川本さんは本場チェコでトルンカとかに人形アニメを学ぶ。
コ・ホードマン『砂の城』も砂人形アニメ。
フレドリック・バックが、アカデミーのアニメーション賞を
『木を植えた男』でとった際の手法、セルに手描き。
など、様々な手法があります。
それぞれの方が、自分に適した手法を選んでいます。
川本さんが人形を使う理由は、「情念」を表現するのには、
人形が最も適しているから、と理由なのです。
なるほど、それは文楽や能からも、感じられます。
さて、切り絵アニメーションは、
ヨーロッパではかなり主流の手法でしたが、
日本ではこの方法はほとんど出てこなかったと言っていい。
カレル・ゼマンも切り絵ですし。
川本喜八郎さんが安部公房の『詩人の生涯』を作ったくらいしか、
私には例が思い浮かばない。
(たぶん、きっとたくさんあるに違いないと思いますので、
知っている方いたら勉強不足な私に教えて下さい。)
さて、切り絵アニメーションは、
ノルシュテインをご覧になればすぐわかるのですが、
我々日本人の慣れ親しんだアニメーションと全然違う。
全く違う。
話の筋のたてかたもそもそも全然違うのだけれど、
切り絵になると、急に軽やかさがなくなるんですね。
一気に深みが増す。
非常に人間臭くなる。
ノルシュテインもご自身の口から語っておられます。
以下、少し引用すると。
「この精緻な切り絵手法こそ、表現を豊かに深め、
映画のもつ神秘性を失わせないために最上のアニメーション技法だ」
確かにそうなのです。
しかし、彼の言い分を少し敷衍し、逆手にとると、
こう言えるのではないでしょうか。
「切り絵手法は映画にしかむかない」と。
たぶんそうだと私は思います。
切り絵は続きものアニメに絶対にむかない。
その手間暇ももちろんですが、
日本のアニメ界でセルが主体となった理由はまさしくここにある。
日本はアニメと言えば続きもので、ストーリー重視でした。
いきおい、流れのいい絵柄が主体となるし、
手間を考えても合理的に違いない。
切り絵は映画にしかむかない。
つまり映画であれば力を存分に発揮する。
さらに言えば、切り絵は最長でも30分くらいがよいでしょう。
短編映画にしかむかない。
なぜかというに、長々と背景描写・説明、
登場人物の関係の説明などを必要としないからです。
あまりに単純化されたストーリーであるがため、
とてもシュールな印象を受ける作品も少なくない。
ノルシュテインの『話の話』は、
ぜひとも見て欲しい、切り絵アニメーションの最高傑作です。
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1950年発表。
もう7〜8年前に読んだものを再読。
物凄く面白かったです。
そのエピグラムから分かるように、
ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』の影響は非常に濃い。
そして、ラファイエット夫人の古典的名作『クレーヴの奥方』
を思い起こさせる、日本初の本格心理小説です。
これほど強固な文体を紡ぎ出す作家は、
現代の日本には一人もいません。
なぜなら、この小説は「私小説」の正反対にあるからです。
ひたすら冷徹に、登場人物の心理を裁断する。
徹底して論理的に解剖する。
すべてが説明文といっても過言ではない。
曖昧な描写は一切ない。
現代の流行は、これは文学の領域のみならず、
「私」的なものであると、私は考えています。
「私」的なものは、
読むものであれ、見るものであれ、
自己をより簡単に投影できます。
すると、登場人物に自分を投影できることの良さとは何か?
それはレクリエーションです。気晴らしです。
すべての嫌な日常から脱文脈化されることです。
その最も成功した例が太宰治であり、
太宰を読めば、一種の毒があるので、
「あっ、これ自分のことか」と、共感を越え、
自己と作中人物が同一に感じる瞬間さえあり、
なにもかも忘れてしまう。
それは自己陶酔です。
それを最も嫌ったのは三島由紀夫です。
三島を読めばすぐに、
登場人物の中にのめり込めない自分を感じるでしょう。
その代わり、
自分とは全く異なる、
別の何かを見いだすことが出来ます。
それは他者の美しさです。
今の世の中には、
とてもナイーブで、繊細で、センチメンタルな作品が、
これまでにないくらい溢れかえっている。
(文章、音楽、写真、絵画etc)
なるほど、そういったナイーブ・ロマン派は、
とっつきやすいかもしれないし、受け入れられやすい。
しかし、私は断じて、
他者の美しさを求める派です。
もう、ナイーブでセンチメンタルなものは見飽きたし、
読み飽きた。
その点、『武蔵野夫人』は、
全くセンチメンタルさのかけらもありません。
徹底的に淡々と、人の心理を論理的に説明する、
説明文しかない。
主人公、勉が興味を持つ、武蔵野の地形描写も、
つまりは勉の心理描写のメタファーに他ならない。
計算されつくされた筋書きと文章と人間関係。
ハルキスト的なものは一切ない。
なんか曖昧な表現で言外の雰囲気を感じさせて、
「いいな」みたいな、
あの甘っちょろい感じは一切ありません。
怠けた形容詞は一切ありません。
日本人が書いた最高の心理小説。
鉄の旋律を奏でています。
舞台は、今で言う野川公園や小金井や、その辺。
さすが大岡昇平。
この春からはじまった、NHKの番組。
世界的なフローリストのCatherine Mullerさんによる、
フラワーレッスン番組。
スーパーフラワーレッスン
パリは1区、たぶん、あの映像の感じからすると、
ルーブルの横、リヴォリ通り沿いかと。
(でも、どうやらピラミッド通りらしい)
私は全くフラワーレッスン自体には興味はないし、
たぶんこれを見ても、ブーケなんて作ることはないでしょう。
(いや、もしかしたらいつかあるのかもしれない)
ただなんとなく、パリジェンヌを見よう的な気持ちで、
見始め、予約録画に加えました。
すると意外に面白い。
第一に、私が思ったのは、
カトリーヌさんのフラワーアレンジメントというか、
作品が物凄く西洋人的であること。
よくもわるくも、
すごくおおざっぱなんですね。
すごく、ざっくりしている。
日本人的な生け花の感性は全くない。
繊細さも、私から見ると全くない。
アイデア重視、という感じなのです。
そして、
カトリーヌさんは典型的なパリジェンヌである、ということ。
なんかパリジェンヌって、服装とか統一されているんですよね。
いい感じにまとまっている。
しかし、総じてレベルは高いんだけれど、
なにか個性に欠けるのも事実。
パリジェンヌって、みんな同じような感じなんですね。
カトリーヌさんも、それなりに綺麗なんですが、
彼女だけでなく、みんな「それなり」で、
それ以上ではない。
つまり、綺麗であっても、魅力的ではない。
別に美人でなくても魅力的な人はたくさんいますよね。
パリジェンヌって、それぞれまとまっているんですが、
なんか個性があんまりない。
まとまりすぎているのかもしれないと思う。
パリ生活を見る、という意味でも、
それなりに発見はあります。
ランジスの市場の話とか。
今期注目の番組です。
この曲は2007年パリの至る所で、
ヘビーローテーションでした。
耳にこびりつく、この歌声。
独特のスタイル。
そして、やっぱり歌詞。
j'traîne des pieds というのは、
直訳すると、足を引きずって歩く、という感じなんですが、
要するに、ちょっと悪で、
やり場のない怒りを抱える子供の歌というか、
尖ってる感じなんですね。
そういう時って、
なんか靴の底を地面に引きずって歩くものではないでしょうか。
かくいう私も、足を引きずって歩いていた時期があり、
ローファーの底をすり減らしていました。
そして、文字通り、靴をダメにする的な歌詞も出てきます。
話は全く変わりますが、
その頃から持つ私のモチベーションは、
Canal+の番組、"Le Grand Journal"に日本人として初めて、
ゲスト出演し、しゃべり散らかすことです。
Le Grand Journalで名物だった、ルイーズの天気予報。
今も、ここに出演するためにはどうしたらいいか、
そんなことばかり考えています。
CLAMP原作のアニメ。
再放送にてすべて見ました。
今期の冬アニメは実にはずれが多く、
投げ出した作品も少なくありません。
たとえば、ノイタミナ枠。
・山本寛氏、東浩紀の『フラクタル』
全然面白くなかった。
何が面白くないって、オリジナル性が全くないし、
全体的に中途半端。
ジブリの影響が濃すぎる。
小林ゆうさんも、いかしきれず。
・『放浪息子』
取り扱ったテーマは、とてもアクチュアルですが、
ストーリーがいい加減すぎる。
全然、筋が通っていない。
そのうえ、主人公の声優さんの声を聞くと、
イライラしてくる。その煮えきらない感じに。
他にも、ミスマッチな声優さんがおり、
やはり挫折。
・・・そんな中、『こばと』はさすがにCLAMP原作だけあって、
しっかりまとめてくるんですよね。
舞台を『ちょびっツ』とも絡める。
CLAMPはやはり、恐るべしです。
この女性四人からなる、漫画家集団は、
少年漫画から少女漫画まで、縦横無尽。
はじめは、『こばと』もなんとなく見ていたってかんじでしたが、
話の盛り上げ方がとてもわかりやすい。
物語の目的、向かうところがはっきりとしている。
すなわち、
こばとには行きたいところがある。
そのためには誰かの心を癒さないといけない。
これが『こばと』の核。
・・・そしてね、最近、異様に涙もろいので、
最終回付近でなんども泣きそうになった。
恥ずかしながら。
今をときめく花澤香菜さんが、主人公、こばとを。
なぜ、『フラクタル』のネッサだと、
なんか腹立つのに、こばとだとしっくりくるのか。
作品の出来次第ということか。
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言語学者、哲学者、文学者、サイバネティック学者である、
海馬浬弧による本、映画、アニメ、音楽、その他、
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私生活については一切書きません。7カ国語堪能。
独断と偏見に充ち満ちているため、不快に思われる方もいらっしゃるでしょうが、これも現代の歪みの一つだと思って、
どうかお許し下さいませ。
リンクは才能豊かな知人の方々なので、ぜひ。
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