あらゆる事柄に関するレビューログ。
#kaibaricot
1966年、ヴェネチア国際映画祭、金獅子賞受賞。
ジロ・ポンテコルヴォ監督。
なんだかここ最近、65、66年の作品が多いですね。
本作は傑作と名高い作品で、ヴェネチアでも金獅子。
アルジェリアはフランスから独立しようと、
50年代よりレジスタンス活動をはじめるのです。
その激闘の記録。
イタリアは、
ロベルト・ロッセリーニ『無防備都市』
ヴィットリオ・デ・シーカ『自転車泥棒』などの、
いわゆる「ネオ・レアリズモ」の傑作を生んだ国です。
ピエトロ・ジェルミの『鉄道員』を加えてもいいでしょう。
明らかに、この『アルジェの戦い』はネオ・レアリズモの流れを汲んでいる。
なぜ、あのヘタリアの国が、こんなにも厳しい「ネオ・レアリズモ」を生んだのか?
それは一つの大きな謎でございます。
『無防備都市』はいまだに、恐ろしい映画だし、
『自転車泥棒』は何度見ても、やるせない。
デ・シーカが採用した方法と同じく、
ポンテコルヴォ監督も『アルジェの戦い』を、現地人、
実際にレジスタンスの闘志であった人物たちを役者として起用。
そのため、非常にリアルで迫力がある。
事実、この映画は、
「ドキュメンタリー・タッチ」なんていう生やさしいものではない。
これは一個の「ドキュメンタリー」ですよ。
たいていの映画は、テロをやっつける方を描いているものなのですが、
(というのもたいていの映画は西洋の映画だから)
これはそうではなく、テロをする側の映画です。
前に何かで読んだのですが
「テロはそういう形でしか表現できないほど追い詰められた表現方法なのだ」と。
確かにテロは、一個の窮鼠的な、追い詰められた人々の、それしかない表現です。
それがよくわかります。
そういう表現方法しか、もう表現方法が残されていないから、
テロをおこすしかない。
この映画は、ドイツ占領下のフランスにおけるレジスタンス活動の映画とも違うし、
ポーランドの複雑な歴史が産み落とした、
ワイダ系のポーランド・レジスタンスとも違う。
どこが違うかというと、やっぱりテロ。
西洋の映画は、そこんとこ描かないし、甘いんですね。
ただ、ワイダの描くポーランド・レジスタンスは、
非常に絶望的で、なんていうか勝てる気がしない。
『地下水道』とか、かつてないほど、救いも希望もない。
徹底的に絶望的です。
これがポーランドの二重の絶望なのです。
絶望の先にも絶望しかなかったという。
さて、『アルジェの戦い』では自爆テロ的に、
女性三人が時限爆弾をしかけるシーンがあります。
一人はカフェに、一人はダンスホールに、一人は空港に。
いずれもアパルトヘイトちっくな「白人の領域」。
女は白人に化けカフェに入る。
すると子供がいるのが目に入る。
しかし容赦なく、彼女は爆弾を置く。
そして、爆発する。
この爆発は、まるで本当の爆発。
あの爆発で誰かけがしなかったのか、と思ってしまう。
復讐につぐ復讐。
まさに血で血を洗う戦い。拷問。
1962年7月3日にアルジェリアは独立を果たしますが、
そのためにいかに多くの人々を失ったか。
この映画の中心的人物であるアリ・ラ・ポワンの目は、
ぎらぎらとし輝いている。
最近、こういう目の人いない。
そしてイスラム教徒の女性達があげる不気味な叫び声は、耳につく。
本当のテロリスムを学ぶためには、ぜひこの映画を見て下さい。
傑作です。
音楽はやっぱりモリコーネでした。
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マルタ・アルゲリッチの伝説的な一枚。
ショパンのピアノ・ソナタ3番とマズルカなど。
(注:なお、いままでのログの誤字脱字を修正しました。
まだ残っているかもしれませんが・・・)
若かりしアルゲリッチの伝説的なショパン・レコーディング。
ピアノ・ソナタ3番の第1楽章は出だしのパッセージから、
もの凄く素晴らしい。
ひどく瑞々しい。
アルゲリッチは感情的なピアノ弾きです。
ショパンはしたがってひどくしっくりきます。
ショパンは様々なピアニストが多様な解釈で弾いてきた作曲家ですね。
好みはあるでしょうが、
Nocturneなら、アルチュール・ルービンシュタインやピリスがいいです。
Etudes関係なら、巨匠リヒテルもやはり凄い。
そしてSonataなら、アルゲリッチ。
有名なショパンコンクールは、5年に1回しか開かれません。
アルゲリッチはそう、1965年に開催されたコンクールの勝者です。
2010年の今年も開かれます。楽しみですね。
最後の曲、Polonaiseの6番は、凄い気迫です。
好んで弾かれる曲ですが、アルゲリッチのポロネーズは、
ダイナミックで力強い。
まるでギレリスのラフマニノフ、プレリュード5番のような、
確固たる響きです。
私は、実のところ、アルゲリッチはそれほど好きなピアニストではないのですが、
それでもこの65年に圧倒的な力でショパンコンクールで優勝した、
彼女のショパンは、魅力的です。
ぜひ、翌日が休みの日の夜などに聞いてみて下さい。
大ブームを巻き起こした昭和残侠伝シリーズ記念すべき第1作。1965年。
高倉健、池部良、三田佳子、松方弘樹、梅宮辰夫。
今となっては、私は「きょう」と打つと変換の第一に「侠」と出、
「ひ」を変換するとまず「緋」と出ます。
以下、この映画を見て気がついたこと。
①三田佳子が若くてすごく綺麗。
ただし、知的な綺麗さではない。
②梅宮辰夫が見分けられない。
辰兄は、若い頃も大体わかるのだけど、
これは若すぎてなかなかわからない。
③池部良が初めての殺陣をやった映画なので、彼の武器が銃である。
つまり彼は殺陣になれていなかった。
その結果、相手にも銃を使う人物が多数。
したがって、ラストの斬り合いは、
シリーズの他の作品に比べ、いまいちである。
④殴り込みにいくシーンでかかる「唐獅子牡丹」の歌詞が、
1番と2番である。
「エンコ生まれの浅草育ち〜」とくる。
⑤健さんの名前が、花田秀次郎ではない。
池部良は風間重吉である。
う〜ん。
本作は残侠伝シリーズの中でも、あいにく下の方です。
志村喬が親分やってたのと同じくらいしたかな。
かなり頭がいたいので今日はこんなもので。
クシシュトフ・キシェロフスキ監督『デカローグIV』
これで残すところ、デカローグはあと一本のみ。
十戒に基づいた全十話にわたる中編映画。
テレビ用に制作された映画のため、すべて60分程度と短い。
そして本国ポーランドでは、平均視聴率50%をたたきだし、
最終回は64%にも達したという驚異的な作品。
このような映画をテレビでやっているとは、相当質が高いと思います。
私はポーランド学の嚆矢として知られていますが、
ポーランドを学ぶためには、アンジェイ・ワイダ監督作品を見、
その後クシシュトフ・キシェロフスキ監督作品を見ることをおすすめします。
ポーランドは非常に苦しい歴史を歩んだ国です。
そのため、ポーランド映画はいつも異様に暗い。
ワイダがお手の物とした、ドライ・タッチは救いがない。
イエイジ・カワレロヴィッチの傑作『尼僧ヨアンナ』の救いなさはこの上ない。
それもこれも、ポーランドは、実際に絶望的な道のりを歩んだからなのです。
キシェロフスキ監督は、他にも、
『トリコロール』三部作、『ふたりのベロニカ』等で知られておりますが、
私は断然『デカローグ』シリーズを推したい。
どの話も素晴らしいからです。
『トリコロール』に至っては、「白の愛」はまあまあですが、
「青の愛」はよくわからない。
『ふたりのベロニカ』は好きな人も多い映画ですが、
映像の美しさ以外にとりたてて見るべき点なし。
Par contre、デカローグは抜群です。
さて、今回はその中でも、
「ある告白に関する物語」
「ある過去に関する物語」です。
この二話は、デカローグの中でもより内的な話であり、ポーランド的な話です。
特に「ある過去に関する物語」は、ポーランド的です。
例によって、ナチス占領下のポーランドにおいて、
見捨てられたユダヤ人少女と、見捨てたポーランド人の女性の話。
いまや月日は過ぎ、ユダヤ人少女はアメリカで立派に独り立ちし、
ポーランド人の女性は、倫理学の教授で権威なのです。
そんな、二人の再会。
ある状況下では、本来、救う側の人も、
容赦なく見捨てる側になってしまうし、
善人と周りが認めているような人物でさえ、
常に善人でいることがいかに難しいか。
逆に救われる側の人が、今度はいつのまにか救う側になっている。
どうして世の中には救う側と救われる側があるのか。
ポーランドの苦い歴史は、
人々にヒーローであることを拒ませたし、
逆に悪人であることをも拒ませた。
そこには、善人でなおかつ悪人である、要するに人間しかいない。
あらわになる人間性。
だから、ある人物は、「私を救ってくれてありがとう」というお礼さえ受け取らないし受け取れない。
だって、ある時その人は誰かを救ったかもしれないけれど、
また別のとき、その人は誰かを見殺しにしたのを知っているし、
誰かを救うということは、誰かを見殺しにすることでもあるからです。
ポーランド人には、自分が加害者であるという意識が非常に強い。
それこそがポーランドの魅力なのです。
登場人物の名前がいいですね。
エルジュビエタ・ローランという。
いかにもユダヤ人っぽくていい。
しかしエルジュビエタってどういう意味なんでしょう?
きっとなんか意味あるよね。
すばらしい映画です。
あのキューブリックが「ここ20年で1本だけ好きな映画を選ぶとしたら、
間違い無く『デカローグ』」とまで言わせしめた、見るべき映画です。
プロレタリア作家、葉山嘉樹の、忘れられた傑作。
『セメント樽の中の手紙』など、彼には佳作が多い。
プロレタリア作家は小林多喜二ばかりが取り沙汰されますが、
結構たくさんいるのです。
徳永直『太陽のない街』は小竹向原ー千川が舞台。
黒島伝治『渦巻ける烏の群』
これらはプロレタリア文学の傑作です。
さて、『淫売婦』は短いながらも、
グロテスクで絶望的な仮借無い物語。
ある若い男が、横浜で出会う、病気で死にかかった淫売婦。
淫売婦の周りには三人の男。
初め、若い男は、三人の男が女をボロボロにしてまで、
食い物にしていると思うのですが、
実はそれどころか、女は三人の男に感謝しているし、
四人が生きるために、皆が皆、助け合って生きている。
女の薬を買うためには、稼がねばならず、
稼ぐためには、女の肉体を酷使しないといけないという、
ただ墜ちていくだけの悪循環。
ここには典型的なプロレタリア系のイデオロギーである、
労働者は労働によりさらに貧乏になるという構図があります。
資本家は労働者を徹底的に搾取し、
労働者はいつまでたっても、働けど働けど楽にはならない、
どうしようもない生活が横たわっている。
彼女はもはや起きることも能わず、
結核でなおかつ子宮癌に喘ぎ、死にかかっている。
腐った畳の上で、死体よりもなお死体的な腐臭を放ちながら、
骨と皮だけになってそれでもまだ生きている。
髪の毛は自分の吐瀉物で汚れ、固まり。
生きていれば何かあるかもしれないという「空頼み」だけで、
生きているらしい。
救いは全くない。
何一つ希望は転がっていない。
若い男はそれでも、彼女に少し欲情するのです。
肉体文学の巨匠、田村泰次郎の『蝗』的なものを思い出しました。
救いのない暗黒な夜に、
自分よりももっとひどい状況を知って下さい。
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独断と偏見に充ち満ちているため、不快に思われる方もいらっしゃるでしょうが、これも現代の歪みの一つだと思って、
どうかお許し下さいませ。
リンクは才能豊かな知人の方々なので、ぜひ。
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